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世界記録はなぜ毎年更新されないのか
少し前の話で恐縮だが、今年の箱根駅伝では相次ぐ区間記録の更新に度肝を抜かれた。
特に「花の2区」と呼ばれる区間で日本人学生も含めた3人もの選手が従来記録を上回ったのも驚きだったし、復路の6区、7区の新記録も圧巻だった。
さすがに今年の記録は異常なレベルなのかもしれないが、既に従来の記録が異次元と言われていただけに、来年もどうなるかはわからない。実際、毎年のように区間記録や総合記録の更新を目にしているような気がするのだ。
記録ラッシュの背景にはシューズの進化があるとは言われる。そうであったとしても、最新の科学的知見に基づくトレーニング法の情報や環境が手に入るようになり、選手一人ひとりの走力が底上げされているのも事実だろう。そして、それだけの力を備えた選手が増えることで互いに切磋琢磨するレベルも高くなる。個人の研鑽のレベルが上がれば記録が更新されるのは当たり前の結果ではないか……
そう考えたくなる。
けれども、おかしくはないだろうか。
それが道理だというならば、逆になぜ記録は毎回更新されないのか?
たとえば、誰かが世界記録を出したとする。その選手は次の大会に向けて過酷なトレーニングを続け、体力と技能の向上に努めるだろう。ならばそこで実力は当然上積みされるはずだ。
ある超人的な記録を他の選手が越えられないのはわかる。しかし、本人が自己ベスト、すなわち世界記録をなかなか更新できないという現象がどうして起こり得るのか、よく考えたら不思議ではないだろうか。記録が更新できないというのは、数字だけ見れば過去の自分に劣後しているということだ。日々血の滲むような研鑽を重ねていながら記録が伸びないどころか劣ってしまう、そんなことはあり得るのか?
もちろん、この問いに対する答えはいくらでも用意することができる。競技の環境や気象条件、当日の体調、他の競技者との駆け引きといった状況の差異が記録に与える影響は小さくないだろう。あるいは怪我や加齢によってパフォーマンスが全盛期に戻らないということも当然起こり得る。好記録を出したことで傲りや油断が生じ、練習の強度が下がったという可能性もなくはないが、世界記録が出せるレベルのアスリートにそれは考えにくい。
つまり、総じて言えば実力だけでなく巡り合わせの問題が大きいということだ。
けれども、もし純粋な競技力以外の諸条件によって記録が伸び悩むのだとすれば、それは逆説的にアスリートの努力が運や状況が及ぼす影響に呑み込まれてしまうほど僅かな積み増ししかもたらさないことを意味するのではないか。
実際、現実はその通りなのだと思う。
ただ、それは決して努力の虚しさや無価値を証明するものではない。
最も卓越した領域に足を踏み入れた人というのは、常人の想像が及びもしない水準での努力を既に重ねている。だから、練習や学習によって積み増されるものがあるとしても、それはもう本当に爪の先あるいは髪の毛1本分ほどの微々たるものなのだろう。
私事で恐縮だが、俺はここ数年ジョギングを趣味にしている。走法を工夫したりしながら走っているうちに、走れる時間も距離も伸びていくし、10km程の走行タイムを分単位で更新できたりする。
でも、それは俺がせいぜい時速10km程度でしか走り続けられない素人ランナーだからに過ぎない。まともにトレーニングしたり勉強したりした経験のない人間が一定の努力をするようになれば、その分だけ目に見える結果が現れるのは当然のことだ。
プロフェッショナルが立つ境地はその遙か先にある。その時点でベストだと思われる練習を重ね、専門分野について知るべきことは知り、そこからさらに一歩踏み出すための方法は最早たやすく見出せる所になど転がってはいない。そんな中で、何とか僅かでも前進するための道を必死で探ろうとする。秒未満のタイムを縮めたりテストの点数が3点上げられたりする方法があると言われても、俺達の多くは見込まれる進歩の乏しさに落胆するだろう。ただ、それはその道を極めた人が血眼になって探し求めているものにほかならないのだ。
凄絶な努力を重ねたところで自身のベスト記録が更新できる保証はない。ならばその努力に意味はあるのか。目に見える結果が出なければ、それは停滞や退歩でしかないのだろうか。
端から見ている人は、そのように感じるかもしれない。けれども、当人にとっては記録が更新されないことが必ずしも停滞を意味するわけじゃない。
自身の成長は結果だけでなく取り組みの中にも感じ取ることができる。鍛錬を重ねることにより、筋力の向上や動作の安定は実感され得るだろう。ただ、それが結果に繋がるかどうかは運や状況によって大きく影響される。技術的には拙くても奇跡的に体調や気候条件がよく、実力の大きな上振れによって好記録が叩き出されることもあるだろう。あるいは、知識が不十分であってもたまたま得意な分野や前日に勉強したばかりの内容がテストに出題され、いい成績が残せることだってあり得る話だ。そうした未熟な時期と比べたときの心身の充実は、それが確かなものでありさえすれば、おそらく十分な手応えとして自覚される。
その違いは一度きりの結果ではなく、長期間を通して見られる変化に注目すれば明らかになるだろう。いわゆる移動平均の考え方だ。
統計的な現象は平均値からの上振れ下振れを繰り返しつつ生起する。そのデータ数や試行回数が多ければ多いほど、結果を均した値は理論上の平均値付近に収束するという平均への回帰が生じる。その考え方に従うなら、俺達の実力が真に向上しているならば、運や状況に左右されつつも一定期間を通じて見られるパフォーマンスはより高位で安定するようになっているはずだ。
平均値から大きく外れた値は発生頻度が小さい。つまり、ある目標が実力とはかけ離れていればいるほど、その発生確率は低くなる。逆に、一定期間の平均値で示される実力が目標数値に近付けば近付くほど、その達成の可能性は高めることができる。俺達の努力はむしろそうした形での「成功」へと向けられているのだと考えるべきだ。
受験シーズンも佳境である。いくつも過去問を解き、一向に得点が上向かないという状況に焦りを感じる人もいるだろう。
ただ、それは決して成長のなさを意味しない。間違えた問題を通じて知識が増えたり、苦手分野が発見され克服されたりしている実感がありさえすれば、そこには間違いなく成長が存在している。その事実に目を向けよう。
もちろん、試験本番に自己ベストが更新できるならそれに越したことはない。けれども、より本質的で大事なことは、実力通りの結果を発揮すれば目標が達成できるという可能性をできる限り高めていくことだ。それをやり尽くしたところに残るのは、最早運や状況といった、自身では如何ともしがたい要素のみである。
言い方を変えれば、「これさえやればもっと点数が伸ばせる」という弱点をはっきりと抱えている人は幸運でもある。それはすなわち伸び代にほかならない。問題は、その弱点を克服するだけの惜しみない努力ができるかどうかだけだ。
世界記録は毎年更新されはしない。それは当たり前のことである。
それはできる限りの努力を尽くした人達が集う競技場で、運に恵まれた人間のみが成し得ることなのだから。
でも、目覚ましい結果のほとんどは、記録に跳ね返されるだけの努力の果てに打ち立てられるものだ。
「結果が出ない」と嘆くとき、果たして俺達は爪の先ほどずつしか前進できないという境地にまで達しているだろうか。