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思考力が育たない構造

「$${x}$$の値が$${5}$$増加すると$${y}$$の値が$${3}$$減少し、直線のグラフが点$${(3, 9)}$$を通る一次関数の式を求めよ」

生徒の手が止まる。
俺は問う。

「与えられている情報から求められるものは何だろう?出題者は、まず何を考えろと言ってるんだと思う?」

答えはない。ただ、固まっている。
虚空を見つめて焦れる気持ちをやり過ごし、問いを変えてみる。

「『$${x}$$の値が$${5}$$増加すると$${y}$$の値が$${3}$$減少する』という情報からわかることは何?」

まだ答えられない。

「じゃあ、$${x}$$の増加量と$${y}$$の増加量から求められるものは?」
「変化の割合」
「で、一次関数では変化の割合と何が同じなんだった?」
「傾き」

そう答えて、彼はやっと傾きを計算し始める。
その後は順調だ。$${y=-\dfrac{3}{5}x+b}$$という式を書き、$${x=3}$$、$${y=9}$$を代入して$${b}$$の値を求める。
そうして、無事に正答は導かれた。

まあ、家庭教師の仕事なんぞしていれば、こんな局面には度々出くわすことになる。

もう一つ、こんなこともあった。これはまた違う生徒の話だ。

「ある分数に$${1\dfrac{12}{39}}$$をかけても$${1\dfrac{33}{52}}$$をかけても答えが整数になる。このような分数で、最も小さい数を求めよ」

宿題で、この問題がわからないと言って持って来る。一応、このパターンの問題は前回の授業で解説し、できるようにはしておいたはず。それを忘れないようにということで類題を宿題にしていたのだが、一週間空いて「やり方」を忘れてしまったらしい。

「さて、この問題は前回やったよね?考え方って、全然覚えてない?」
「えっと、分子は$${{39}}$$と$${{52}}$$の最小…あれ?最大?……あ、最小公倍数を考えます」
「分母は?」
「$${{12}}$$と$${{33}}$$の公約数」

息をひとつ大きく吐いてから、努めて冷静に問う。

「オッケー、こういう問題を考えるとき、前回は何から始めたっけ?」
「まず、$${1\dfrac{12}{39}}$$の方だけ考える」
「そうそう。それで、掛け算して答えが整数になるにはどんな条件が必要なのか、イメージを作るんだったね。じゃあ、やってみよう」

そうして彼は「$${□×1\dfrac{12}{39}=}$$整数」と書く。

「はい、じゃあその計算結果を整数にできる分数はどんな分数?」
「分子は…$${39}$$の倍数、分母は$${12}$$の約数」

ああ、焦れったい。

「じゃあ、『$${\dfrac{3}{4}×1\dfrac{12}{39}}$$』が幾つになるか、計算してみて」

そう言うと、式を「$${\dfrac{3}{4}×\dfrac{51}{39}}$$」と書き直して計算し始める。

「ほら、分数の掛け算を考えるときは帯分数を仮分数に直してから計算しなきゃいかんでしょ」
「あ、そっか」
「はい、じゃあ改めてその式の結果を整数にするための条件は?」
「えっと…分子が$${39}$$の倍数、分母が$${51}$$の約数!」
「その通り。で、$${1\dfrac{33}{52}}$$についても同じことが考えられるよね。はい、そこから後は自分で答えを出して」

疲れるなあと感じつつ、彼が$${13}$$や$${17}$$という二桁の素数を公約数として発見するのに苦闘しているのを見守り、答えに到達するのをひたすらに待つ。
そこから5分ぐらい経ち、ようやく正解に辿り着く。

「はい、じゃあ残りの問題も同じようにして考えられるはずなのでやってみよう」



この2つのエピソードに共通する事柄は何だろうか?

まず、第一に「思考の糸口さえ与えられれば、そこから先の手続き的な処理は自力で進められる」ということだ。
第一の例で言えば、両変数の増減を変化の割合や傾きという言葉で定義し直すことにより、「傾きとグラフ上の点の座標から直線の式を求める」という「見知った問題」としての認識が生成された。すると、そこからの代入という「手続き」は記憶に基づいてつつがなく進められる。
第二の例では、前回授業時に考え方を説明していった流れを再現する、すなわちそれぞれの数と掛け合わせて答えが整数になる分数の条件を考えるという入口に再度立たせることにより、そこから後の「手続き」の記憶を復元することができた。また、帯分数の分子との約分を考えてしまうという誤りについては、実際に帯分数の掛け算に取り組んでみることで、「仮分数に変えてから考えなければならない」という「手続き」を思い出すことができた。
つまり、考え方自体は既に知っているはずなのだが、それを引き出して利用することができないという状況がそこにあるということだ。

第二に、「文字情報を現実の感覚に落とし込み、試行錯誤を通じて思考の糸口を掴む努力ができない」ということだ。
最初の例で言えば、両変数の増減から「変化の割合」を考えろと言われれば求めることはできた。けれども、それを示唆されなければ求められないというところに問題がある。正解に繋がるかどうかはともかく、「与えられた条件や情報から何が考えられるか」が自発的に考えられないと、様々な問題の解決を導くのは難しい。
二番目の例でも、「前回は何から始めたっけ?」という問いをきっかけに、それぞれの数に掛け合わせると答えが整数になる分数の条件を考えるという発想が思い出された。2つの数についての具体的な計算がイメージされれば、時間は多少かかるにしても、最後には「公約数」「公倍数」の考え方に自ずと行き着くものだ。ただ、誰かに言われるまでそうした単純な試みに着手することができていない。そこに問題がある。

どうしてこのような問題が起こってしまうのか。
それは、学校にせよ塾にせよ、集団を相手に行われる授業の多くが「手続き」を重視した指導にならざるを得ないことから生じているのではないかと思う。
もちろん、指導者は$${x}$$と$${y}$$の増減から変化の割合、すなわち傾きを求める手管を解説はしているだろう。2つの数それぞれについて掛け合わせた答えが整数になる分数の条件を示したうえで、公約数と公倍数を考えれば良いという結論に至るまでの過程も示してはいるだろう。
ただ、そのような思考の糸口を探る試みを自発的に引き出すような授業は難しい。何せ、時間がかかる。あるいは、一部の利発な生徒がすぐに正しい着想を得てしまうため、他の生徒は彼らの試行錯誤の成果に「ただ乗り」するだけで済んでしまう。
そうした結果、授業の中で生徒に等しく要求されるのは、「さあ、考え方はわかったね。じゃあ、答えを計算してみよう」という「手続き」の再現のみということになってしまう。そして、正しい「手続き」に則って答えが導けたことをもって、その背景にある「着想」のための過程も理解されたとみなす。いや、様々な制約からそうみなさざるを得ない。
けれども、当然ながらそんな想定は到底成立し得ない。思考力を育むうえで本当に必要なのは「着想」の過程であるのだが、多くの子供はいわば産みの苦しみを十分に経験しないまま、ただ「手続き」への習熟や反復を求められることになる。だから、「どのような手続きが必要か」を具体的に示してもらわないと何もできないということが生じてしまう。

皮肉なことに、この問題に対する教育者側の姿勢が状況の悪化に拍車をかけているのではないかという印象がある。
これは自己反省も含めて言うのだけど、時間などの制約がある中で真に生徒の自発的・自律的な「着想」への試みを待つのは難しい。そこで代替的に採用されるのが「自律を装った思考の誘導」という手法だ。それは例えば、「$${x}$$と$${y}$$の増減から何が求められた?」という問い掛けや、「最初に1つずつ、掛け算の答えが整数になる分数の条件を考えてみよう」といった指示が相当する。これらの声がけにより、生徒が一見「自分の力で」然るべき考え方に辿り着いたかのような状況を作ることはできる。
ただ、これらは単に「手続き」を精緻化しているに過ぎない。つまり、「$${x}$$と$${y}$$の増減に関する情報が与えられていたら傾きを求めればいい」とか、「2つの分数と掛け合わせていずれも答えが整数になるような分数を考えるには、まず1つずつの場合を考えて条件をイメージすればいい」という定式を与えているだけであって、それが生徒の自律的な思考の試みを強化するのに役立つかどうかは疑わしい。定式化された問いをもって初めて「着想」が得られるに過ぎないのであれば、そうした定式に当てはめることができない問題に遭遇したとき、やはり立ち竦むばかりではないか。
理想を言えば、「何でもいいからわかることを考えてみよう」とか「できることをやってみよう」と放置し、あれこれの試みを引き出すべきなのだろう。ただ、教える側にそんな贅沢な時間の使い方は許されていないし、まして生徒の側がそれに耐えられない。多くが徒労に終わるような試みを繰り返し、そこから一筋の光明を掴んで手繰り寄せるといった粘り強い思考作業は、やはりそれなりの訓練を必要とするものだ。特に、何もせずとも精緻化された「手続き」が与えられ、それに従って「処理」に励めば正解に辿り着けるといった経験が豊富に与えられるほど、思考の糸口を自ら探る動機は小さくなってしまうだろう。



この状況は教育の場に限らず、現代社会においても顕著に見られるものなのかもしれない。
膨大な情報や多様な価値観が溢れる世界において「正解」を見つけるのは限りなく難しくなっている。そして、そうだからこそ、俺達は思考の糸口を与えてくれる情報、「正解らしき」ものへと至るための「手続き」を示唆してくれる情報を渇望する。ゼロから物事を考える力などというものを求められても、そんなものは一部の優秀な人でなければ到底無理だと思えてしまう。
その結果、そうしたニーズに応える形で「手続き」の精緻化が追求されていく。人間の思考力や創造性というものに過度の期待を寄せるのではなく、多くの場面に当てはめられる「手続き」の記憶や情報を収集する。そして、それを必要な状況に応じて引き出す。現代における生存には、むしろそちらの戦略の方が望ましいと言えるのかもしれない。

そう考えると、そもそも「思考力を育む教育」というのが現実にそぐわない幻想に過ぎないのではないかとも思えてくる。個人的には、その考え方を否定したい。ただ、加速化する現実の力は個人の思いなど薙ぎ倒していくかのようだ。

「思考力の問題」に教育はどう対峙すべきなのか。
俺はまさに今、思考の糸口が得られないゼロ地点に立ち、途方に暮れている。

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