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記号接地とダブルリミテッドの問題が示唆する直接法の限界

以前、「直接法による日本語指導を再考する」という記事で日本語教育における直接法偏重への批判を行った。

上記投稿では言語習得面での効果よりもコミュニケーションのあり方という側面から、教室における媒介語使用の禁止について懐疑的に論じている。

では、言語習得の効率面ではどうなのだろうか。
一般に、目標言語での思考や即時応答が可能になるなど、流暢な言語運用能力の獲得を重視するならば媒介語を使用しない学習、すなわち直接法が望ましいとされることが多い。他方、直接法の短所としては媒介語を用いればすぐに終わるような語彙・文法の導入に時間を要するほか、抽象的概念を扱う表現の導入が困難であるという点がしばしば指摘される。
両者の見解は直接法の良い面、悪い面をそれぞれ扱っている点で対照的に思われるが、実際には同一の課題に直面していると考えられよう。

その課題とは、記号接地の問題である。

記号接地問題は人工知能による言語処理技術の発達に伴って注目を集めているほか、人間の学習の仕組みを記号接地の観点から論じる今井むつみ氏の著作(近著では『言語の本質』や『学力喪失』が挙げられる)などを通じて多くの教育者に知られつつある。
たとえば、人工知能による学習は「りんご」と"apple"との対応を統計的に検出することにより、両者の翻訳を可能にする。けれどもそれはあくまでも「記号」同士の関係を学んでいるに過ぎず、コンピューターにとって「りんご」や"apple"が何を意味しているのかは未知のままである。他方、人間は現実の果実を目にしたり食したりした体験と結びつけることで「りんご」や"apple"という記号に意味を与える。そして「りんご」と"apple"が翻訳可能であると理解する際、その判断は両者が同一の果実を指しているというイメージに基づいて行われることになる。このように、記号が実体験と結びつくことで意味を獲得するという現象が記号接地であり、人間がどのような機構で記号接地を実現しているのか、それを人工知能のような機械に実装することは可能なのかが関心の的になっているというわけだ。

さて、言語指導における直接法とは習得される言語記号を学習者の既存知識や体験と直接接地させる試みだと言えるだろう。言い換えれば、ある事物や状況、心情が認知されたとき、それらに対応する目標言語の表現が即時に喚起されることを目指すものだ。たとえば、朝出かける際に近所の住人と出くわしたなら、「え〜と、"Good morning."は日本語で『おはようございます』か―」などと考える間もなく、その状況から反射的に「おはようございます」という言語表現が導かれるような学習を理想とする。
こうした記号接地の方略は特に、母語と目標言語との間で辞書的な対応を持たない表現の習得において重要だ。たとえば、日本人が食事を始める前に発する「いただきます」を英語で表現することは難しい。けれども、食事の前に「いただきます」という言葉が使われる場面が提示され、あるいは自身でもそれを言う体験を得ることにより、「いただきます」という言葉は自分が支度された料理を食べようとしている状況の認識に接地される。

他方、間接法においては既に記号接地が終えられた媒介語の語彙と目標言語との紐づけにより、間接的に目標言語の記号接地が図られる。たとえば、誰かに迷惑をかけるなどして申し訳なく思う気持ちと"Sorry."という言葉とが既に直接の結びつきを得ているとしよう。そこに、「ごめんなさい」という日本語が"Sorry."に相当する表現だという情報が加わることで、「ごめんなさい」は"Sorry."を介して申し訳なさという心情の経験に紐づけられる。
もちろん、媒介語への翻訳を必要とする限り、「ごめんなさい」が学習者の心情を真に反映し得るかという疑問はある。既に記号接地された言葉に翻訳できるからといって、その言葉もまた記号接地が果たされたと考えることはできるのだろうか。
単純な事物であれば媒介語を通じた記号接地は可能であるように思われる。たとえば「りんご」が"apple"と同じ果物を指すことを学べば、どちらの言葉を聞いたり話したりする際にも、そこには自分が知っている果実のイメージが伴われるだろう。一方、「りんご」と"apple"との対応を知らない日本語学習者が「りんご」という言葉を聞いても何らイメージを想起することはできない。このことは、媒介語の"apple"と結びつけられるだけで直ちに「りんご」という日本語が間接的に記号接地されることを示唆している。
けれども、抽象的な概念になるとそうはいかない。前出の"Sorry."と「ごめんなさい」は互いに守備範囲を少しずつ異にする。日本語の「ごめんなさい」は時として"Excuse me."の意味で使われることがある一方、"Sorry."は場面や社会的文脈に応じて「申し訳ございません」や「すまん!」などの日本語に対応させるのが適切であったりする。さらに、"sorry"という語自体は残念な気持ちを表すのに用いられることもあるなど、"sorry"という記号に紐づけられた感覚と「ごめんなさい」のそれとは必ずしも一致しない。ならば、日本語における「ごめんなさい」を正しく習得するには「いただきます」の場合と同様、その表現を学習者の体験や認知の枠組みと直接結びつけるほかないはずだ。

ここまでの話だと、記号接地の問題という観点からは直接法に分がありそうに思われる。
ただ、事はそう単純ではない。目標言語と学習者の体験および認知とを直接結びつけようとする試みにおいて、学習者の母語が一切関与しないなどということがあり得るのかという疑問が存在するからだ。
もう一度、「いただきます」の習得場面に立ち返ってみよう。先述の通り、「いただきます」に対応する英語表現を考えることは難しい。ゆえに英語しか解さない学習者であれば、「いただきます」という言葉とその使用場面とを直接結びつける以外に当該表現を習得する術はない。
そして、実際に「いただきます」の場面が繰り返し提示されたとしよう。その過程で学習者は「いただきます」が食事を始めようとする際に使われることに気付くだろう。では、「食事を始めようとする際」という認識や定義はいかにして生まれ得るのか。
そこにはおそらく母語による思考が介在する。一切の言語を介さずに「食事」という行為を他の行為から切り分けたり、「食前」「食中」「食後」という時間軸上の区別を認識するのは、不可能とまでは言わないが不自然だ。母語による思考を通じて「『いただきます』は食事の前に使われる言葉なのだな」という理解が生じるならば、それを否定的に捉えたり黙殺したりするのは非合理だろう。
このような状況は、より抽象的な語句の習得を考えればさらに分かりやすい。
たとえば「性格」という日本語を直接法によって導入する際、教師は色々な「性格」の具体例からその抽象的な本質を帰納的に理解させようとする。けれども、この試みは多くの場合上手くいかない。「優しい」「真面目」「よく考えてから何かをする」など学習者にとって既知の表現を並べてみることで、「性格」が「どんな人か」に関係する言葉なのだなと気付かせることはできる。実際、「どんな人かを説明する言葉です」という抽象的なレベルでの説明が日本語で与えられることも多い。
ところが、「どんな人か」という認識だと、たとえば「元気だ」「きれいだ」「勉強がよくできる」といった形容までが「性格」として理解されてしまう。「性格」という語は日本語学習の初級段階で掲出されるが、その枠組みを初級レベルの日本語だけで定義するのはかなり困難だ。
それに対し、「性格」が英語における"personality"に近い概念だと分かってしまえば理解は遥かに正確になる。もちろん、両者の守備範囲が完璧に一致するわけではないが、その差異は後から修正すれば事足りるレベルだと言える。少なくとも、「あなたの性格を教えてください」と言われて「サッカーが上手です」という答えが出て来てしまうような事態よりはよほど好ましい。

このように、直接法による指導であっても結局は学習者が母語の表現、あるいは母語を通じて獲得した認知の枠組みによって導入される表現が近似されたり解釈されたりすることは起こり得る。むしろ、第二言語習得においてはそうした近似や解釈の精度こそが実のところ学習の成否を大きく左右しているのではなかろうかとも思うのだ。
その仮説を例証するのが、外国にルーツを持つ児童が経験するダブルリミテッドの問題だ。成年期に外国へ移住してその国の言語が十分に習得できていない両親の間に生まれた子は、学校などでは第二言語の習得を求められる一方、家では両親の母語を話さなければならない。結果としてどちらの言語も満足に話せなかったり、日常会話程度はこなせたとしても、学習や抽象的思考に足る水準の言語能力が獲得できなかったりという状況に陥ることがある。
ダブルリミテッドの問題が生じる原因は、一般に母語の習熟が不十分であることに求められる。その考察が正しいのだとすれば、それはまさに第二言語習得が母語の支えによって成立していることの証左であると言えるだろう。
もちろん、単純に第二言語との接触時間の少なさを原因と考えることもできなくはない。語彙や表現の習得はその大部分を家庭などのコミュニティに負っている。ゆえに、日中は学校などで第二言語を浴びていたとしても、家に帰れば母語でしか話ができないのであれば、当然ながら言語習得においては不利になる。それは母語の習得に関してもまた同じことだ。
ただ、皮肉なことに、直接法を支持するならばこの見解を全面的に受け入れることは難しい。
直接法か間接法かの議論が問題になるのはそもそも間接法を採用する余地がある程度に母語や他の言語を学んだ経験のある学習者を対象とするからだ。当然ながら彼らの言語環境においては学齢期の児童以上に第二言語でのコミュニケーション機会が乏しいうえ、多くの場合は2年から長くても6年程度の学習期間で目標言語を習得しなければならない。直接法は子供が母語を習得する過程を模した指導法だが、目標言語の接触時間の少なさが大きく影響してしまうなら、十代後半以降の学習者に直接法を用いることは実りのない試みになってしまう。
けれども直接法の擁護は、長じるにつれ発達する認知能力によってそうした時間的制約が補償されるという主張のもとに行われる。つまり、直接法の成否は認知能力と不可分であると述べているのだ。認知能力の発達に言語能力が関与すると考えるのは十分に妥当であろう。ならばダブルリミテッドの問題についても、母語の発達、ひいては母語を通じて形成される認知能力の不足によって第二言語習得が妨げられるのだと考えられるはずだ。

ダブルリミテッドの問題は直接法にとって喉に刺さった骨のようなものだと言えるだろう。直接法は媒介語を中継しない記号接地を理想とするが、実のところ母語に支えられた認知を介さなければ、目標言語の記号接地が不首尾に終わる可能性を示唆するからだ。
仮に目標言語のみで指導を行ったとして、学習者の側で勝手に(あるいは不可避的に)母語などの媒介語で認知が形成され、その巧拙によって学習のパフォーマンスが左右されるのだとしたら、そもそも目標言語のみしか使用しないことの意義はどのように正当化されるのかという疑問が生じる。もちろん、指導者と学習者との間に共通の媒介語が存在しないのであれば直接法しか採用しようがないのではあるが、媒介語の使用が可能ならば、むしろ学習者の記号接地を的確に進めるための補助として媒介語を用いたほうが有益なのではないだろうか。
思うに、間接法への批判は目標言語の語彙と媒介語の語彙とを辞書的に一対一で対応させてしまうことに端を発しているのではないか。類似した概念を持つ語彙同士であっても、そこには言語体系に特有の守備範囲があり、機械的な逐語訳によって両者を的確に翻訳するのは不可能である。そのような媒介語の使い方は確かに戒められるべきであろう。
一方、そうした差異をきちんと理解させたり、学習者の認識と語彙本来の意味合いとのズレを補正したりするために媒介語を積極的に用いるのはむしろ有益なのではないか。
たとえば「許す」という日本語には"excuse"や"forgive"のほか、"permit"の意味もあるのだと伝えるだけで学習者にとっては語句の意味の理解が格段に楽になるはずだ。こうした多義性を直接法による場面提示のみで導入しようとすると却って学習者の負担は大きくなるし、これをきちんと理解するような学生はどうせ媒介語で同様の定義を自分なりに行っているはずだ。
あるいは、よくある誤りとして前置詞「in」を悉く格助詞の「に」と置換してしまう間違いがある。直接法だと「に」と「で」の区別を具体的な共起表現を示すことで感じ取ってもらったり、初級レベルの日本語のみで定義したりしなければならないのだけど、英語の使用が許されるならば、より抽象的な説明によって認識の精度を上げることが可能かもしれない。

直接法による指導は、既に記号接地がある程度なされた状態から媒介語による思考過程を取り除き、状況や心情の認知と目標言語との繋がりをより直接的にすることを目的とするなら意義のあるものだろう。ただ、目標言語の記号接地における母語や媒介語の貢献が大きいのであればそれをあえて黙殺することは不合理ではないか。
教える側としても、学習者の母語や英語などの媒介語と日本語との差異を意識しておくことは指導上有益であるはずだ。ならば、英語ができないなどの理由で直接法しか選択肢がないという状況を所与のものとするのも勿体ない気がする。また、以前の記事で述べたように、日本語に拘泥することなく媒介語でも何でも用いてコミュニケーションがとれるようにするという学習にも意義があるはずだ。
そうした面からも、言語学習における媒介語の使用はもう少し前向きに検討されても良いのではないだろうか。

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