君の名前はアンニュイです
嫌な夢を見た。
ひんやりとした空気が、今見た夢の輪郭をなぞってよりくっきりと蘇らせてくる。起きたくなかったけど夢の続きをこれ以上見たくなかった。
重い足取りで布団から這い出す。こういう日は何もかもがどんよりとしている。天気も。朝のニュースも。
着替えを済ませて家を出る。意識したわけじゃないのに黒い帽子に黒いジャケット、スニーカーも黒にしてしまった。無意識に暗い色を選んでいる。
枯れ葉がカサカサと舞う音、頬を撫でる冷たい風、車のクラクション、どれもが私のザワザワを逆撫でしてくる。思わず手のひらで二の腕をさすった。寒いわけじゃなくて、もっと奥底の何かを守るために。
歩いても、止まっても、ザワザワする。
ザワザワからは、逃げられない。
だから、ザワザワを、見つめた。
私の体より一回り大きくて、冷たくて、色は透き通ったグレー。タイプはたぶん、悪かゴースト。人の体を丸ごと包み込んで、聞こえるか聞こえないか分からないレベルで心を不安定にさせる音を発する技をもつ。
君の名前はアンニュイ。
アンニュイっていうのは、アン・ニュイだろうか。だとするとニュイを打ち消している。ニュイの否定形だ。ニュイとはなんだ。きっと明るい意味だが何語なんだ。
(ここで簡単にAIに頼ったりしたら面白くないしアンニュイについて考えることがそこで終わってしまうから調べない)
このザワザワした気持ち=アンニュイだとしたらアンニュイについてもっと知りたいし、もっとその姿形をはっきりさせたいと思った。
枯れ葉をザクザク踏みながらアンニュイについて考えをめぐらせる。こう、理由はないけどなんだかザワつくこの気持ち。
アンハッピーのアンじゃない。だから英語の否定形、unニュイじゃないと思う。
アン…アン…あんぱんまーんと脳内に流れてくるプレイリストを強制的に止めた。
ザクッと枯れ葉がなった時、ハッと気づいた。アンドゥートロワ!?ならばフランス語かもしれない。アン、が1で、ドゥーが2で、トロワが3…?
違う。「アンニュイ」で一つの単語だ。そう考えるとしっくりくる。たぶん、フランス語のアンニュイな気がしてくる。
とすると私のこのザワザワとした気持ちは国を超えて、フランス人も抱えている気持ちだということになる。なんだか鼻が高くなった気分だ。シャンゼリゼ通りを枯れ葉が舞う。あまり赤すぎないくすんだ枯れ葉がいい。空はどんよりと曇っている。
歩く女性の髪はさらさらストレートのロングでどうだろう。節目がちに、ロングコートで。ロングブーツがいいな。皮のいいもの。彼女に何が起きたのかは分からないけど、長いまつ毛が下を向いて影になっている目元が美しい。
うん。アンニュイがぴったりだ。むしろアンニュイが相応しい。その瞬間を切り取って絵画にしたら「アンニュイ」という作品が出来上がりそう。フランスパンがあった方がいいか、ない方がいいかは画家に任せよう。
フランス人になった気分で背筋を伸ばしてアンニュイを演じて歩いているうちに、雲が風に吹き飛ばされて晴れ間が見えてきた。
アンニュイに想いを馳せて、ゲシュタルト崩壊するくらいアンニュイアンニュイ呟いてたら、いつの間にかアンニュイじゃなくなっていた。
さよならアンニュイ。
また会う日まで。