高円寺と人生のマジックアワー
何者にもなれない苦しさと何もできない焦りだけが募り、僕らの人生のマジックアワーはコロナに駆逐されていく。
貴方にとって人生のマジックアワーっていつだと思いますか。
僕はずっと大学生時代が人生のマジックアワーだと思っていました。この本を読むまでは。
「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」
その16文字から始まった、沼のような5年間。 明大前で開かれた退屈な飲み会。そこで出会った彼女に、一瞬で恋をした。本多劇場で観た舞台。「写ルンです」で撮った江の島。IKEAで買ったセミダブルベッド。フジロックに対抗するために旅をした7月の終わり。
世界が彼女で満たされる一方で、社会人になった僕は、"こんなハズじゃなかった人生"に打ちのめされていく。息の詰まる満員電車。夢見た未来とは異なる現在。深夜の高円寺の公園と親友だけが、救いだったあの頃。
それでも、振り返れば全てが、美しい。
人生のマジックアワーを描いた、20代の青春譚
この小説には、著者にとっては23歳24歳が人生のマジックアワーだったようです。金銭的余裕はないけど困窮しているわけでもない、大学生よりはお金も持っていて朝まで飲み明かして出勤する体力も持ち合わせている。
つまり、極端に金銭的負担の大きなことじゃなければ大抵のことは可能だった。
その反面何者にもなれないことや何も身につかない、何も成長しないことに対して焦りとストレスを感じ戦友と杯を交わしてまた戦場へ向かう。心の支えは戦友と彼女、そして数少ない友達だけだった著者の日々がありありと浮かんできた。
きっと著者は収入よりもやりがいを求める価値観の人で今もきっとまだクリエイティブなことに大きな夢を持っていて、戦友と語り明かしたアイデアを見返しているんだろう。もしくは未だに高円寺の大将に集まって飲んでいるかもしれない。あるいはその両方か。
世の中にはある程度の収入と福利厚生が整ってる企業で勤め上げ結婚して平穏な暮らしを幸せと考える価値観の方も多数いらっしゃるが、僕はこの著者同様そうはなれなかった。
こんな事を言うと失礼かもしれないけど、もしそうなれたらどんなに楽だったろうかと考えてしまう。こんなに無理をしたり苦しんで悩んで勝手に背負い込む事もなかったのにと。
僕はあいも変わらず何者にもなれない。恥ずかしいことに25歳にもなって立派に四年生大学を卒業し所謂大企業へ就職もしたくせに、未だに何がしたいのかハッキリ出来ないで居る。
世間はそれを好奇心旺盛と呼ぶだろう。
事実、僕もそう思っている。
しかし、良いように比喩しすぎだとも思う。
好奇心旺盛な人でも'自分の軸'がある人が居る。
この人達はその軸に沿った上で好奇心旺盛なのだ。自分のしたい事も目指す姿もハッキリしていて、言うならば世界を広げる運動の様なもの。
だけど僕は違う。
あれもこれもと手を出してしまって中途半端に終わってしまう。1〜2個実績を作ればそれで一時的に満足して浮気してしまうのだ。これが実に悪い。
自分の武器も特技もハッキリせぬままにスランプに陥るわけでもなく、ただぴたりとやめてしまう。
そんな僕はこのまま何も身につかず、何者にもなれないままだ。