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目の言葉と耳の言葉――1つのものを2つに分けないことの効用

少し前から、本を読んでいても頭に入ってこないことがあって、私が変わったのか、それとも外が変わったのかと、考え込んでいました。しかしなぜか、面白いと思う本や、すっと頭に入ってくる本もあるのです。

それで、どんな文章ならすっと頭に入るのだろうと思って、いくつかの本を開いているうちに、外山滋比古さんの『日本語の感覚』に行き当たったのでした。そこには、明治期以降に始まった、言文一致運動のことが書かれていて、「ああ、忘れていた」と想い出しました。ここが、あらゆる問題の肝なようにも思ったのです。

要するに、日本語は目の言葉(書きことば)と耳の言葉(話しことば)が違うということで、対して、西洋では書きことばと話しことばとが一致していたため、近代文化をもたらしたというわけです。このあたりは考え出すとどんどん考えが出てきてしまいますが・・・。外山さんは、日本人に対して次のように述べます。

もうすこし「私」を大切にすべきである。「私」に責任をもつのだ。われわれの文化は「私」を粗末にし、スタイルの定まらない若者ばかりに色目を使って、円熟の難しさを忘れてしまっている・・・若いときには絢爛たる文章を書いた人が、歳をとるとまるで生気のないものしか書かなくなる。書けなくなってしまう。年齢とともに円熟するということがないのである。どうして蕾が大きな花をつけ、りっぱな実を結ばないのか・・・中年の関所がなかなかうまく越えられない。借物をすてて独自の境地を拓くことが困難なのである。その原因のひとつは、やはりスタイルをもっていないことにある。「私」を表現する方法がないまま、ほかのものの真似をしていれば、意外に早く老残が訪れる。・・・やはり「私」を大切にすることである。と言って、やたらに第一人称を振りまわされても迷惑する。自分の「私」にも弱いが、ひとの「私」にも弱い人間が多いから、主観的な意見を個性的であると勘違いしてしまう。方法としての「私」が必要なのである。どういう表現をすれば、主観的狭量に陥らずに、自己の思考、感覚を伝えることができるか、さらには、表現を越えたものを伝達することができるか、それが探求されなくてはならない。

外山滋比古 1992年『日本語の感覚』

なるほど、すっと頭に入ってくる文章は、「私」のスタイルが確立されていることに気がついたわけです。私も、自分の文体を確立したいなあ、と思いながら書いています。それにしても「私」というのがなかなかどうして難しくて、そのためにセラピーがあるのだろうと私などは思うのですが。

仏教学者の鈴木大拙さんは、人間の苦しみは、他者が自分をどう見ているかということと、自分が他者は自分をこのように見ているだろうと忖度する心とのあいだの間隔にあって、このように知性を働かせていくと自分で自分を殺すことになると述べています。

内のものが外に現われる、内外の関係が相応しておれば、そこに形式主義というものが成り立つものである・・・人の心の動きには理屈で説くことのできない一つの経験がある。その経験というものを経て来なければ人間というものの生命がのらぬ。形式になってしまう。その経験にふれたならば、形式そのものさえも変わってくる。そして生命が流れる・・・神秘的体験というのは主観性の方である。それは自分本位である。けれども、言うだけでは果たして自分の経験というものに、客観的妥当性があるのかどうかということが問題になる・・・そこで、一方に論理的のものがなければならぬと同時に、一方には主観的神秘的経験というものがなければならぬということは、また当然の帰結となる・・・われわれの意識の自覚ということは、覚するものと覚せらるるものと対立している。ここに意識と言うものが実際に行われるのである。しかし覚するものと覚せらるるものが、一つになった世界にはいらないと、神秘的経験というものができないのである。そこで、これに追い込む方便として、この二つになっているものを、二つにならぬようにする方法を考えなければならぬ。この方法が公案というものである。

鈴木大拙 1954年『禅とは何か』

鈴木大拙さんは、禅の基礎は心理学の上にあると述べていて、私は最近、やっとその意味がわかりかけてきました。本質的なことを、単に消費される言葉ではなく、血肉になる言葉で伝えるのは難しいなあと思いながら、これを書いています。

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