少し前から、本を読んでいても頭に入ってこないことがあって、私が変わったのか、それとも外が変わったのかと、考え込んでいました。しかしなぜか、面白いと思う本や、すっと頭に入ってくる本もあるのです。
それで、どんな文章ならすっと頭に入るのだろうと思って、いくつかの本を開いているうちに、外山滋比古さんの『日本語の感覚』に行き当たったのでした。そこには、明治期以降に始まった、言文一致運動のことが書かれていて、「ああ、忘れていた」と想い出しました。ここが、あらゆる問題の肝なようにも思ったのです。
要するに、日本語は目の言葉(書きことば)と耳の言葉(話しことば)が違うということで、対して、西洋では書きことばと話しことばとが一致していたため、近代文化をもたらしたというわけです。このあたりは考え出すとどんどん考えが出てきてしまいますが・・・。外山さんは、日本人に対して次のように述べます。
なるほど、すっと頭に入ってくる文章は、「私」のスタイルが確立されていることに気がついたわけです。私も、自分の文体を確立したいなあ、と思いながら書いています。それにしても「私」というのがなかなかどうして難しくて、そのためにセラピーがあるのだろうと私などは思うのですが。
仏教学者の鈴木大拙さんは、人間の苦しみは、他者が自分をどう見ているかということと、自分が他者は自分をこのように見ているだろうと忖度する心とのあいだの間隔にあって、このように知性を働かせていくと自分で自分を殺すことになると述べています。
鈴木大拙さんは、禅の基礎は心理学の上にあると述べていて、私は最近、やっとその意味がわかりかけてきました。本質的なことを、単に消費される言葉ではなく、血肉になる言葉で伝えるのは難しいなあと思いながら、これを書いています。