子どもが小さな花を摘んであなたにくれるとき――健康な自己愛の源泉について
精神科医・小此木啓吾さんは、『自己愛人間――現代ナルシシズム論』の中で「健康な自己愛」について整理しています。
と、その前に、現代のように肥大化した自己愛をもつ人が増えた理由について、示唆深いことを述べています。
つまり、人間にとって「個の自立」というという根本的課題があるのだけれども、これまでの時代ではそれがひとりひとりの人間の内面においては達成されず、個の主体がおきざりにされたまま社会的・組織的な面で達成されたために、あたかもそれを自分が遂げたことであるかのように錯覚していた、ということです。
たとえば、いい会社に入って年功序列で係長になったら、何だか自分が素晴らしい能力をもっているかのように思うが、定年退職した途端、素の自分と向き合うことになりうつになった、とかそういうことです。
あるいは「赤信号みんなで渡れば怖くない」というような、マスとか量の力で何かをおこなうことは、個人の力や健康な自己愛とは異なるものなのです。
それで、ではなぜ現代は「健康な自己愛」をもつことが難しくなったのかを考えることも大切なのですが、それは社会学的な仕事でもあるので、ここでは小此木さんが整理した「健康な自己愛」を書きたいと思います。
1.母親(または他者)から愛されているという自信、自分が母親(または他者)を愛することが母親(または他者)からも喜ばれるという確信。そしてこれは経験的裏付けをもっているものであること。これが、エリック・エリクソンのいう基本的信頼である。
2.この意味での健康な自己愛を身につけた人間は、それ以後の人生でさまざまな困難や不信を経験しても、人間に対する信頼と、自己自身に対する信頼を抱き続けることができ、人間と自己に対する希望と信頼を最後まで失わない自我の強さを保ち続けることができる。
3.とくに強調したいのは、健康な自己愛は、母親(または他者)から一方的に受け身的に愛される経験から生まれるものではなく、むしろ自分が母親に対して向ける身振り、態度などの愛情表現が相手を喜ばせ、相手の心をみたすという能動的な働きかけが相手から受け入れられることの自信を意味している事実。これこそが、エリクソンが人格の活力源と呼ぶように、その人物の愛情、仕事あるいは人生そのものを達成するための能動性の源泉になる。この能動性は、相互性への信頼に支えられている。
面白いのは、エリクソン自身は決して豊かな親子関係にあったというわけではないということです。むしろ悲惨でした。にもかかわらず、彼が現代にも響く大きな仕事を成しえたのは、彼がその後に出会って関係をもった他者とのやりとりの中で、幼少期に達成しえなかったことが達成しえたのであり、彼にはそもそも「なかったもの」だったからこそ、理論としてかたちにすることができたのではないかと思うのです。
「なかった」からこそ、「よく見える」ものがあって、それはどこかで何かの役に立つかもしれないと思うのです。
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