「大丈夫じゃないよ」と言われた日
先日、本当に悲しいことがあった。
いろんなものをなげうってでも本気でやらなければできないのに、どれだけ本気でやってもできないことが世の中にはあって、願っても願っても、叶わなかった。
叶ったと思ったら、消えてしまった。
時間もお金も体も精神も、そこに費やして、仕事も犠牲にして、娘にも無理をさせて、一番に考えてたものを失った。
それは、新しい命だった。
やっと、ようやく命が生まれたと思ったら、2週間後には泡のように消えてしまった。
その日はしばらく涙は止まらなくて、事あるごとに泣いた。出張先から夫がその日は帰ってきてくれて、一緒にステーキを食べた。
家に帰ったら、娘が帰ってくる。
泣いている場合じゃない。
冷静になる私がいる。
次の日に、もう一度確認してやっぱりいよいよだめだと分かった。
私は前を向こうと決めた。
泣いてばかりもいられない。
動けばきっと新たな出会いもある。
ちょうどやり取りしてた同じ経験のある友達に、冷静に今の状況を吐き出して、前向きに頑張ろうとしていることをアピールした。
そうだ。資格取ろう。運転免許もいい。文学賞に応募しよう。今まで忙しくてできなかったことやろう。本も読んで、ドラマも観て、ゲームもやって、漫画だってよむ。
やりたいことをたくさん並べて、娘と楽しい思い出作って、笑顔でいるように。この経験も、必要だったと思えるように。
こんな時に、夫は何年かおきのお祭りばりに多忙な出張がほぼ一ヶ月。仕方ない。自分が塞ぎ込んでいる場合ではない。
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1日たって、
友だちから返事が入った。
「大丈夫じゃないよ、そんなに簡単に割り切れないよ」
友人の一文に、胸が詰まった。
トイレに篭って号泣してしまった。
本当は布団被って、1年くらい泣き暮らしていたい。悲しいよう、悲しいようと、泣いていたい。
会いたかったよと、もうしてあげられることが何もなくてごめんねと。
ずっと悲しみに向き合っていたかったのだ。
どうして自分だけうまくいかないのと神様を責め、あんなに頑張ったのにと後ろ向きな発言を繰り返し、仕事も辞めちゃってなにもかも失った気になって不幸な自分によしよししてあげたかったのだ。
でも、自分がしっかりしなければと、娘がいる自分はまだましな方だと、それに娘の前で悲しい顔は見せられないと、ずっと自分を誤魔化してきた。なにか、なにか次の生きがいを……。
仕事を辞めたのだから、この時間を有意義なものにしなければ……。
焦ればあせるほど、何もできない。
やらなければならない手続きさえ、治療が終わることを意味して、涙が溢れて進まなかった。
娘のまえでは不思議と前向き。だけど、まだまだやっぱり後ろ向きな自分。
友人が気づかせてくれた。私よりも、ちゃんと私の悲しいを大切にしてくれた。私のほんとは悲しいを、抱きしめてくれた。
ありがとう。
私も、後ろ向きな自分を、もう少し抱えていかなければならないのかもしれない。