猫と私。
「私の人生の半分以上は、猫で出来ている」、と言っても過言ではない。
現在実家には、猫が一匹いる。
「六匹」のうちの一匹である。
六匹いたのだけれど、五匹が亡くなって、今は一匹となってしまった。
その一匹も、今は闘病中である。
人間の年齢だと、90歳を超えている。
六匹のうち上の三匹は、多頭飼いの家から一匹ずつ母がもらってきた。
下の三匹は、拾得物として某官公庁に収容されていたところ、拾得物の保管期間が過ぎてしまい、保健所行きになるところを、某官公庁で働いていた私が、実家に連れて帰った。
ウチの猫たちとの思い出は、たくさんありすぎて書ききれない。
キッチンにあった肉料理を、口にくわえて盗み、逃げたので名前を呼んだら、口から肉がはみ出たまま振り返ったものだから、私に現行犯逮捕された話。
ネズミのおもちゃを、私が投げて猫が取ってきて、私の前に持ってくる遊びをしていたら、途中で疲れたのかその場で横になり、私のほうに視線を向け、
「オマエ、トッテコイヨ。ボク、ツカレタワ。」
アピールをしたこと。
で、そのネズミを他の猫が隠すのだけど、どこかの隅で見つけた時には、ネズミの毛がないとかね。
あれはビックリ。野生に戻ったのね、きっと。
エピソードの一部だけど、これが六匹分あるから、ホント書ききれない。猫にも性格があるから、いろんなことが起こるわけだ。
そんな自由気ままな猫たちも、私が病気になってからは、私に優しくしてくれた、というよりも、あれは看病してくれたのでは、と思うことばかりだ。
みんなでくっついて体を暖めてくれたり、寝ているフリをして、薄目でこちらを見ていたり、ある日私が泣いていたら、近づいてきて、私の涙を舐めてくれた。
と同時に、猫の目に涙が溜まっていたこともあった。
そうっと、私の心と体に寄り添ってくれた猫たち。
そんな猫たちに、私は恩返しをすることが出来たのだろうか。
闘病中の猫に、寄り添うことしか出来ない私。
寄り添って一緒に寝ているうちに、私も居眠りしちゃって、しまいにはヨダレを猫の毛につけてしまう、というありさま。
今でも、私の一番の味方は、猫である。
私は、猫がいないと生きていけないくらい、猫が好きだ。
しかし、この体で猫と一緒に住むことが出来るだろうか。
自分のことで精一杯なのに、夫と猫の両方のお世話が出来るのか。
ご飯をあげて、トイレを綺麗にし、時には遊び、病気になったら、私は猫を病院に連れていけるのか。
夫は転勤族。ウチは子供がいないので、夫が単身赴任になったら、私はひとりで猫とやっていかなければならない。
若い猫と一緒に住むことは出来ない。
何故なら、私が先に死ぬ可能性があるから。
私が具合が悪くなったらどうする。
私が倒れたら、猫が救急車を呼んでくれるのか。
私が入院したらどうする。
私が死んだらどうする。
夫が病気になったり、もしも私よりも先に逝ってしまったら、猫を育てる生活を、私は出来るのか。
災害があったら、私に猫を助ける体力はあるのか。
一番寂しい思いをするのは猫。
一番心に傷を負うのは猫。
そう考えると、猫と一緒に住むことを躊躇するのだ。
時々、動物管理センターの猫を、サイトで見ているのだけど、経済的、体力的な事情で放棄された猫たちが収容されている。
それを見ていると、胸が苦しくなるのだ。
元気だった時、獣医師がいるところで、臨時職員をしていた私。
私と同じく猫好きな職員と、動物管理センターの猫のサイトを見ては、
「この猫可愛い~!」と毎日連発発言していた。
するといつの間にか、獣医師が日替わりで私たちの後ろに立って、
「可愛いだけで猫は飼うものじゃない。ちゃんと、自分たちが責任をもって飼えるのかを考えなさい。本当に飼う気がないなら、「可愛い」だけで、猫を見てるんじゃないよ。」と厳しく教えてくれた。
その時は、まさか自分が早くに病気になるとは思っていなかったし、「猫と一緒に住むのが夢です。」と豪語していた。
人は、いつどうなるかわからないけど、今そこそこの年齢で、体が丈夫で働くことが出来るなら、手放しで猫とすぐに住めるだろう。
妹も、私に何かがあった場合、私の猫を引き取ってくれる、とは言ってくれるが、果たしてそれでいいのだろうか。
それこそ、「猫への恩返し」が「恩を仇で返す」ことになるのではないか。
猫にも人生はあるし、人間同様、猫の命も大切、そして猫は家族の一員。
この問題は、決してネガティブなことではなく、むしろ猫ファーストのポジティブな考えである。
そして、毎月決まった額を『猫基金』のようなものに寄付しているが、他にも猫のために何が出来るかを考えている。
こうやって、真面目に猫について考えることが、ウチの猫たちへの恩返しなのかもしれない。