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3分講談「折口信夫と藤井春洋」

能登半島の西側に位置する石川県羽咋市。この海沿いの町に眠っているのが、日本を代表する民俗学者である折口信夫と、その養子となった春洋(はるみ)でございます。(①)

折口信夫は、歌人としては釈迢空の名で知られますが、明治二十年、現在の大阪市浪速区に生まれました。天王寺中学校を卒業しますと、上京して國學院大學に進学し、万葉集や神話を中心とする古代文学を学びました。一度は大阪に戻って中学校教員になりましたが、再び上京し、母校・國學院大學の教員として着任。その後は、文学だけでなく、祭りや芸能などの日本の習俗にも深い関心を寄せ、日本人の心を紐解く独自の思想を作り上げました。多くの学生が、折口とその学問を慕って入学したと申します。(①)

 そんな門弟の中で、最も折口の寵愛を受けたのが、石川県羽咋市出身の藤井春洋という学生でありました。春洋は、昭和三年、二十一歳のときから折口の自宅に住み込み、身の回りの世話をしたり、調査に付き従ったりいたしました。時に折口は四十二歳。そのさまは、まるで兄弟(あにおとと)のように仲良く、またあるときは、年の離れた夫婦(めおと)のように仲睦まじいものでした。後には戸籍上の親子となりますが、生涯妻を持たず、弟子には師弟以上の心の繋がりを求めた折口にとって、春洋は、公私ともにかけがえのない伴侶であったのです。

しかし、そんな生活は長くは続きませんでした。昭和十六年。太平洋戦争の激化に伴い、春洋に召集令状が届きました。そのとき春洋は三十八歳、折口は六十歳近くになっていました。

「先生、どうぞご心配なく。わたくしは、体が丈夫なことだけが取り柄です。きっと元気で戻ってまいりますから。」

 しかし、戦局は悪化する一方。そして昭和十九年六月。春洋は、のちに最も過酷な戦闘の舞台となる、硫黄島へと送られます。春洋は硫黄島から、何度も、東京の折口に手紙を送りました。

「毎日の報導で心をいためてゐられることゝ思ひます。しかしこちらは案外おちついてゐます」「ともかくも元気にゐて下さい。きつとまたお傍にゐてよい日をすごす時が来ることを念じてゐます」(昭和十九年九月)

「このたびは、羊羹など尊いものを送つて頂いて申し訳ありません」
「最近東京も時々B29の来襲がある様ですが、どうぞお気をつけて下さい」   
                        (昭和十九年十一月)

「島の消息」(『鵠が音』中公文庫、中央公論社、1978(昭和53)年)

春洋の心配どおり、このころになりますと、たびたび東京も空襲を受けるようになっておりました。近所の人々が折口を心配します。

「先生、東京にいてはお命が危のうございます。私は信州に知り合いがいますから、ぜひご一緒に疎開をいたしましょう。」

「お心遣いは有り難いが、春洋が硫黄島で戦いに明け暮れているというのに、どうして私だけがのうのうと疎開ができましょう。せめて心だけはいつも、春洋と共に戦ってやりたいのです」

そう言って、頑として疎開を受け入れませんでした。(①)

昭和二十年二月十三日。春洋から再び手紙が届きました。

「私は相変らず元気です。この点は御安心下さい。敵でもあがつて来て戦ふ様な時はいざ知らず、病気などでは決して彼岸へは参りませんから。」

同上

そんな心強い手紙が届いたわずか三日後の、二月十六日。硫黄島に、ついに米軍が上陸。その一報はほどなく、東京にも伝わりました。折口とて、頭ではもう、春洋の生還は望まれないと理解していたでしょう。しかし心には、到底受け入れ難い現実でありました。

きさらぎの はつかの空の 月ふかし。まだ生きて 子は たゝかふらむか

『倭をぐな』(中央公論社、1955年)

春洋はまだ生きているだろうか、いや、きっと生きている―。言霊の力を恃み、歌に一縷の望みを託したのです。

その願いも空しく、昭和二十年三月三十一日早朝、日本軍大本営は、硫黄島全員玉砕を発表。折口は取り乱すことなく、ラジオから流れるその報道を、じっと聞いていたと伝わります。(①)

終戦後、混乱もようやく落ち着いた、昭和二十三年九月。春洋のふるさとである石川県羽咋市を訪れた折口は、春洋と自分の親子墓を建て、こんな墓碑銘を刻みました。 

「もっとも苦しきたゝかひに 最くるしみ死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋  ならびにその父 信夫の墓」。

師弟を越えた愛情で結ばれた二人の奥津城は、穏やかな潮風の届く場所に、今も静かに佇んでおります。「折口信夫と藤井春洋」の一席。

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