『FF7』のストーリー構造について
FF9のジタンについて文章を書いたので、せっかくだからFF7についても振り返りながら書いてみたい。折しも一月後にFF7リメイクが発売されることもあるので、FF7が持つ魔法の一つである特殊な物語構造について語ってゆきたい。
FF7とその異質性
FF7は様々な面でRPGというジャンル、そしてゲーム業界全体に大きな影響を与えた傑作である事は紛れもない事実である。特に3Dモデルという技術革新、そして国際的な商業的成功は、JRPGジャンルやプレイステーションというプラットフォームの飛躍の起爆剤となった。しかし、ここでは、そういった側面をあえて無視し、ゲームのナラティブとテキスト、すなわちストーリーに焦点を当ててみたいと思う。
真っ先に主張したいのは、FF7というのは極めて個人的な物語である、という事だ。言い換えると、FF7のストーリーは徹頭徹尾クラウドという主人公の自我とのその問題解決に終始しているという点で、それまでの、そして1997年から以後に発売される数多くのゲームのほとんどと比較して異質である。
FF7という極めて個人的な物語
それはどういうことか、この文章を読んでいる人は8割型FF7のストーリーについて承知しているとおもうので、ここで詳しい説明は省略する(ストーリーを思い出せない方はググれば一発で出てくるのでそちらを参照されたい。)が、物語が大きく転換を迎えるのが、クラウドの記憶が嘘であることが証明されるイベントである。それまで元ソルジャーとしてストーリーの牽引役になっていた彼は、突如として「信頼できない語り手」出会ったことが明かされ。彼の回想は全てミスリードであったことが明らかになる。
真相を極端に単純化すると、クラウドはエリート戦士になるために村を出たものの、結局一般兵にしかなることができなかった、このコンプレックスと、その後の事件で人体実験を施されたことで記憶が混乱し、元ソルジャークラウドという擬似人格が生まれた、というものである。物語の終盤では、クラウドは自分の過去を認め、セフィロスを倒し、物語を終わらせる。この意味で、FF7のストーリーは肥大したエゴに向き合い、克服するという極めて内省的かつパーソナルな物語である、と言えるだろう。
セフィロスの支離滅裂性
このように読むとFF7の他の要素は上で挙げた主題をRPGとして成立させるための脇役に過ぎないことがわかる。例えばこのゲームのラスボスにしてクラウドの宿敵、セフィロスについて考えてみよう。彼を独立的な意思を持つキャラクターと仮定した場合、その行動や思考は極めて支離滅裂であることがわかる。
まず彼の悪役としての動機にしても、あまり説得力を持って描かれていない。彼はあるイベントで自分が、現在の人類より前に地球に住んでいた「古代種」であると考える。そして人類に憎悪を抱き、村を焼き払う。しかし、その後セフィロスは実は自分が古代種ではなく、他の天体からやってきた種族であり、星のエネルギーを吸い尽くす「ジェノヴァ」であるという真実を知り、今度は星を滅ぼそうと計画する。
カリスマ性溢れるエリート戦士という設定とは裏腹に、このように二転三転する彼の動機、そして彼にとってはただの一般兵でに過ぎないクラウドにつきまとう行動は、あまりに首尾一貫性に欠けている。このことから物語の作り手が、彼を主体的なキャラクターとして想像しなかったのではないかという疑問が浮かび上がってくるのである。
「クラウドのエゴ」としてのセフィロス
ではセフィロスとは何者なのか、個人的な答えとしてはセフィロスとは「クラウドのエゴそのもの」である。クラウドは元々セフィロスのような英雄になりたいという思いを抱えて故郷をでたが、それは叶わなかった。「ニブルヘイム事件」でのセフィロスの発狂と変貌は、クラウドが恥ずかしさのあまり故郷で正体を明かせなかったタイミングと完全に同期している。これをクラウドのエゴの暴走と見るのは深読みしすぎだろうか?
また、ボスキャラクターとしてのセフィロスの行動の支離滅裂さも、この視点を使えば説明できる。物語序盤、見え隠れするセフィロスの影、そしてエアリス殺害イベントの「なぜなら、お前は、人形だ」というセリフ、そしてラスボス撃破後に発生するクラウドとの一騎打ちイベントは、全てクラウドがストーリーを通じていかに自我に向き合ってきたかを表現している。
すなわち、序盤のクラウドは自分が元エリート戦士であったことを信じているが、そこに徐々に綻びが見え始める、これはセフィロスコピーがマントを纏って一考の行く先々に現れることで表現される。また、セフィロスの完全な復活イベントは、偽物の記憶の暴露とほぼ同時に行われ、クラウドが打ち勝つべき内面が明確になったことを示しているのではないだろうか。ゲーム最後の一騎討ちに関しては言及するまでもなく「克己」の象徴であろう。
個人的な物語とRPGの文法のギャップ
セフィロスはまた、このような個人的かつ内省的な課題解決物語をFFという国民的RPGとして成立させる役割も負っている。結局FFに限らず当時のRPGはその文法として世界を救うというフォーミュラが重要で、それに沿ったゲームシステムが用意されている以上、クラウドの乗り越えるべきエゴとしてのロールを与えられたセフィロスは、同時にクラウドの故郷の村を焼かねばならず、星の滅亡を計画せねばならない。さもなくばクラウドの内面的な課題が世界の終わりと接続することがなくなりFF7がRPGとして成立しなくなってしまうからだ。
セフィロスは結局のところ、クラウドの肥大したエゴを表象し、またそれを乗り越える成長物語を「世界を救う」RPGの文法に接続させる役割を与えられた、いわば物語の舞台装置であり、彼自身は演者ではないのである。
これは決してFF7をセカイ系として読もうという試みではない。なぜなら「セカイ系」とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であるが、FF7はその本質として「この世の終わり」に主眼を置いておらず、徹頭徹尾「小さな関係性」よりもより内的な問題に終始しているからである。「この世の終わり」を描かせたのはゲームとしての商品性、RPGというジャンルの伝統、FFというシリーズの束縛といった構造的なものであり、FF7の作品性はむしろこうした構造に対する強い遠心力を持っている。
終わりに
FF7のストーリーに関して考えをまとめてみたが、最後に2020年4月に発売されるFF7リメイクについても触れておきたい。1997に発売された異色の傑作を2020年にプレイするとき、プレイヤーはその物語をどのように受け止めるのだろう。
まず気になるのはFF7リメイクは分作であるということである。この4月に発売されるのは、ゲーム序盤のミッドガル脱出までしか収録されていない。この段階はまだクラウドも周りの仲間たちも(そしてプレイヤーも)主人公の記憶を疑うことはせず、「元ソルジャー」として接している。ミッドガルはいわば伏線を張るために用意されたストーリーであり、これだけで完結した一本の作品となるかは、正直なところ疑問である。
また、FF7バブル崩壊後の日本という時代的雰囲気に支えられていたこともまた確かだろう。この時代は、それまでの抽象的な「世界を救う」「大きな物語」が脱構築され、エヴァをはじめとする内省的な作品が一斉を風靡した時期でもある。しかし、2020年が10年間の好況の転換点になりそうな今、FF7リメイクとオリジナル版はその時代背景において奇妙な一致を見せるかもしれない。
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