自分用(生きるためのメモ)

私の解釈はたぶん間違っている。整合性を取ろうとして考えた思考実験の数々に過ぎない。私は己の解釈を信じているのではなく、啓示を信じているのであって、その解釈は妄想に近い。

私はたぶん救われない。もし私が救われるとしたら、救われない人は他にいないだろうから。もし救われない人が多いのなら、私も漏れなくその中の一人だろうと思う。

神様の赦しの愛を受け取るのは難しい。受け取ることが恥ずかしい。自分に救われる資格なんかあるとは思えない。自分は罰を受けて滅びたらいいと思う。

赦されたいという気持ちはある。でも、私は赦された、と自分で思うのは恥ずかし過ぎる。あまりに痛々しい。

苦しい時は、肯定でも否定でもなく、ただそのように在る、と感じることで気持ちが楽になる。でも、肯定も否定もない世界では、意味も価値もないから、倫理も幸福もない。倫理や幸福を感じるには、価値が必要となる。

だから苦しみのスパイラルから脱出して冷静さを取り戻した後には、意味の世界に再び戻って来る必要がある。そうでないと、ただの死んだ抜け殻のようになってしまう。そうなったら、ますます罪を増してしまう。

だから生きるためには赦される必要がある。生きることは務めだから。

では、赦されるとは何なのだろうか。それは、過去を忘れるということなのではないか。少なくとも、過去を心の片隅に置き、今の地点からまた再出発を始めるということ。

だから赦しとは、再び生まれることと言われるのだろう。過去を置いていって、その地点から再び歩みはじめることだから。

人が過去の責めを手離せないのは、相手は私の罪を忘れていないだろうな、と思うから。自分だけ忘れて前を向くのは卑怯だと感じるから。だから赦されることを人は望むけれども、自分を赦すことは、他人を赦すよりも難しい。

だから、忘れられなくてもいいのではないか。ただたまにはその記憶をいったん脇に置いて、違う方向を見てみるのはどうか。違う景色が見えるかも知れない。

辛いことを思い出して苦しみのスパイラルに嵌りそうになったら、こうしよう。まず、否定も肯定もなく、ただそのように在る、ということを意識する。そうして怒りや悲しみの気持ちをリセットできたら、その記憶をいったん心の脇に置いて、前とは少し違う方向の景色を見ながら、再び意味の世界に戻ってくる。そして、またそこから歩き始めてみる。

以前の苦しみとは違う、小さな幸福が意味として浮かび上がって来るかも知れない。たった今この一時だけ、私の前で咲く花が美しいと思えるような幸福があるかも知れない。過去を忘れ去った訳ではない。ただ苦しみが重くなり過ぎて、あるいは死んだ抜け殻になって、これ以上の罪を増やさないために、生きる務めを果たすために、自分を赦す。

前を向いて歩きなさい、と。

あとの行方は、すべて神様にお任せしよう。私を救うおうと裁こうとも、私が決めることではなく、神様の決めることだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?