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合格に必要なのは努力?才能?それとも環境?

 入試シーズンを迎えるこの頃、私も東大合格を目指して勉強していた時代があったなと思い出す。

 そのときによく思うことが、第一志望の学校-私の場合は東大-に合格するために、結局何が必要だったんだろうということだ。

 もちろん、自分で勉強して入試対策を行わないと合格しないので、「努力」は最低限必要だ。

 でも、ある程度の「才能」がないと努力が実を結ばないという説もある。なんなら、そもそも「努力する」という才能が必要だと主張する人もいる。

 実際に、東大に入って周りを見渡すと、「努力」と「才能」をバランスよく発揮した人が多いように感じた。たしかに、努力だけではどうにもならないこともあると思うし、逆に、才能があることにあぐらをかいて努力しなければ、いずれ結果が伴わなくなるだろう。

 でも、ここで一つ忘れてはいけない要素がある。それは「環境」だ。

 整った環境がベースにあってこそ、努力と才能を発揮することができると私は思う。

 多くの東大生は、この「環境」に恵まれている。

 親が高学歴だから、本人も自然に難関大学を目指すようになる。親が教育熱心で金銭的に余裕があるから、レベルの高い中高一貫校に進学する。その学校では多くの難関大学合格者を毎年輩出しているので、授業も難関大学入試を意識している。そして、都会の大手予備校に通っているから、受験のノウハウを教わることができる。東大を目指す友達が周りにたくさんいるから、モチベーションも高い。

 正直、うらやましかった。

 田んぼと動物に囲まれる田舎に生まれ、難関大学の合格実績が低い高校しか周りになく、親から「うちは裕福じゃない」とことあるごとにプレッシャーをかけられた私は、「都会で勉強できていいな」といつも思っていた。

 そんな私が「不利な状況を覆してがんばってやろう」と思うきっかけとなった、とある同い年の女の子のエピソードがある。

 ◇

 彼女とは、大手予備校の合宿で出会った。

 その予備校の模試で一定レベルの成績を取った地方の高校一年生に対し、予備校が割安で勉強合宿を提供するというものだった。おそらく、その予備校は大都市にしかないので、アクセスができない地方の高校生にも勉強の機会を提供したいという理念だったと思う。

 参加者は、いくつかの班に分けられた。彼女は私の班にいて、「ギャルっぽいな」という第一印象だった。たしか、化粧もしていたと思う。

 参加者の多くは素朴な見た目だったので、彼女のような風貌はちょっと目立っていて、それでよく覚えていたのかもしれない。

 ある夜、班の子たち同士で勉強の悩みを語り合っていたとき、彼女が受験に対する自分の思いを語ってくれた。

 彼女は母子家庭に生まれ、塾に通える金銭的余裕がなかった。母は看護師で、自分を育てるために昼夜働いてくれていた。

 彼女が「東大を目指したい」と伝えたとき、母は応援してくれた。家族や親戚に難関大学の出身者はいなかったから、反対されるかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。

 夜遅くまで彼女が勉強する間、母は寝ないで見守ってくれていたと彼女は話していた。仕事で疲れているし、うたたねしていることもあるけれど、寝室に入って寝ることはない。

 「お母さん、もう先に寝ていいよ」と声をかけても、母は断るそうだ。

 「あなたががんばって勉強しているんだから、私が先に寝るわけにはいかないのよ」と返された。

 「母がこんなに応援してくれているのだから、私は東大を諦めたくない」と、彼女は言っていた。

 私は、同じ状況だったら東大を諦めないでいられるだろうか。

 難しい状況にある中で、それでも希望を見失わないで、努力を続けることができるだろうか。

 彼女の話は、私に大事な問いを投げかけてくれた。

 たしかに、私は彼女と同じように田舎出身で、都会の受験生と比べて不利な状況にある。でも、私の場合、苦手な数学は塾に通わせてもらえた。また、彼女の母が娘の勉強を支えていたように、私の家族も金銭的、精神的にサポートしてくれている。

 足りないものばかりに目が向いていたけれど、私に備えられているものは、案外多いのかもしれない。それらに感謝し、最大限使わせてもらおう。

 そう決心することができた、貴重な出会いだった。

 ◇

 その後の私は、今あるものを活用すべく、いろいろな行動を起こした。

 まず、高校二年生のある日、受験に必要な五科目の先生すべてに「私は東大に行きたいんです」と伝えて、個別指導をお願いした。

 高校三年生の夏に大手予備校の短期講習に参加した際は、講義終わりの講師に突撃して、一対一で過去問対策の相談をした。

 また、東大出身のおじさんにおすすめしてもらった東大受験ノウハウ本を買って、一点単位で得点戦略を練った。

 東大に無事合格できた今、振り返ってみると、今あるもので私は十分だった。

 高校の先生は、親身になって添削指導をしてくれた。予備校の講師は、自分で書いた対策本を無料で私に渡してくれた。東大受験ノウハウ本のおかげで、戦略なしには合格できない東大入試を突破することができた。

 正直、都会で育つチャンスがあるなら都会がよかったという思いは今でもある。それでも、あの田舎での18年間は「不利な環境下でどこまで自分を伸ばせるか」というゲームだったのだと思えば、むしろ良い経験をできたと思う。

 ◇

 東大に受かって、キャンパス内であたりを見渡しても、彼女の姿はなかった。

 当時はまだお互いの連絡先を交換するような時代でもなかったから、彼女の合否を彼女から聞いたことはない。東大は一学年に3000人もいるから、四年間で一度もすれ違わなくてもおかしくはない。

 彼女は、東大に受かったんだろうか。何度もそう気になった。

 もちろん、東大合格だけが人生の成功ではない。彼女が納得して進路を変えたのであれば、私からなにも言えることはない。

 ただ、彼女が東大に合格したかどうかは、受験において環境がどこまで重要なのかを示す指標になっているような気がして、気になったのだ。

 やっぱり、地方に生まれ育ち、都会のようにお金と時間をかけて勉強できない受験生は不利だったんだろうか。仮に不利な環境を覆すことができるとして、努力と才能はどこまで上乗せして持つ必要があったんだろうか。 

 私の経験からすると、受験において環境は重要だけれど、決定的ではない。「環境のせいにするな」と言うのはあまりにも簡単だけれど、実際、環境が合格を直接左右するわけではない。

 最後にものを言うのは、結局のところ、努力とそれに伴う自信だと思う。

 生まれ育った環境を自分の力で変えようとしても、子どもには難しい。そんな子どもは、まずあるものに目を向けて感謝し、それらを最大限生かすよう努力する経験が必要なのかもしれない。

 そして、その環境自体を変えてあげることは、行政を始めとした社会全体の役割なのだろう。

 自分の受験経験を思い出すたびに、自分が国家公務員を志したきっかけが頭の中によみがえってきて、退職した今でも、奮い立つ気持ちになる。





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