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識字率を支えるもの

言語
勉強
子育ての風景

ネットで紹介されていたこの本は
「読み書きの日本史」八鍬友広 岩波新書(新赤版)1978
読んでみたらホントに面白かった。
中でも現代の国語教育との比較には、なるほどと納得できた。
例えば江戸時代の教育の場として知られた寺子屋での教育は
「商売往来」等、その分野でよく使われる言葉や商品名を満載した本を
教科書として使用していた。
まず覚えるのは名詞から、ということである。
しかし当然ながら「名詞」が書けるようになる段階と
候文体で自由に手紙が書ける段階との間には大きな隔たりがあるのだ。
これは、私たちが初めて英語を習った時のようなもので
名詞のBook や Pen あるいは This is a penを覚えたからと言って
自由に文章が読み書きできるわけではないのと同じである。 
寺子屋で基礎を覚えた後は、読み書きを必要とする職業につくかどうか
ということが読み書き能力を左右した。
基礎を覚えたら後は仕事をしながら
あるいは自分で勉強して覚えていくのである。
まさにOJTというヤツでござる。
これに対し
私たち大多数の現代人は
義務教育だけでも9年間学習を重ね
教科書は言文一致体で書かれていて
文字は楷書体で
使われる漢字の数も制限されている
という好条件のおかげで
当たり前に読み書きができるのでござる。
それに加えて身の回りは文字だらけなのでござる。
ネットだって読んでいるのだよ。
そういえば
姑が子どもの頃学校のクラスは男女別で
クラスの農家の女の子たちは非常に大人しく、発言もせず
まるでお客さんのようで勉強もできなかったと聞いた。
これは、農家の女の子は
黙って親の言う事を聞いて良く身体を動かして働いて
嫁に行っても黙って言う通りに働くことが求められていたからだろう。
私の母も女の子が学問などしては生意気になると言われて
女学校に行かせてもらえなかったのだと。
母は小学校を出ると奉公に出され
奉公先で商品を包む古新聞で文字を覚えたのだと。
ウチの舅も
「女は家の切り盛りができればいい」という大正生まれであった。
教育は様々な世代の色々な段階が織りなすグラデーションで流れていく。