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「謎解きプロジェクトVol.2」ファシリレポート

こんにちは、サナフミです。

先日、以下のイベントレポートにある「謎解きプロジェクト」という高校生と話をするイベントに参加しました。

リンクの記事にあるように、すでにイベント内容は綺麗にまとまっているので、ここでは、個人的にサナフミが高校生と交流して感じたこと、学んだことを書きます。

〜その1〜 なんて楽しそうな高校生たちよ

会場に入り、レイアウト変更を終えると、高校生たちが会場入りをしてくる。考えてみれば、会場は高校生たちがホームで、ファシリをする大人たちがアウェーです。(トイレから戻る時、違う部屋に入ろうとしたところを、参加者の高校生に止められた)

30歳を越えて、初対面の高校生と話すのは、思っている以上に緊張するものです。「どんな考えを持っているのか」「自分の話が伝わるのか」人間にとって、得体の知れないものは怖いものです。(同じ人間ですけど)

開始前、参加者(高校生)が集まってきたので、とりあえず空いている席に座ってもらって、雑談。「部活何やってるの?」「何委員会?」みたいな、たわいもない質問をすると、思ったよりも話してれる。

それがなんとも楽しそう。

高校生たちは、こちら(サナフミ)が理解できても、できていなくとも、とにかく自分の伝えたいこと、自分たちの中で伝わる文脈で話す。

「この前、A君と放課後残ってて、その後、ありえなかったんです」
「あ〜、マジありえなかったよね」

「自分、車が好きでよくサーキットみたいなところに行くんです」
「ほんと、お前は車好きだよね、後、ネトゲ(ネットゲーム)もやばくね」

みたいな。

私としては、知らんがな。と一言お伝えしたくなるところですが、それがなんとも楽しそうに話すので「そうなんだ〜」とこちらも前のめりで話を聞けました。

そんな彼らの姿を見て、いつから私は空気を読む力が高まり、相手にわかりやすく伝えることばかり考えるようになっていたのだろうか、と自分を省みていました。

好きなものを純粋に好きと言って、何が悪いんですか、相手に伝わらなくたって、全然気にしないですよ、みたいな高校生は眩しかった。

では、なぜ彼らがそのように自分の気持ち、思いを率直に話ができるのか。

それは、やはり学校が圧倒的に「心理的安全性」が確保された環境だからですね。(今回の場合、同じ部活という人も多く、より一層)

多少、論理が飛躍しても「お前の言ってることはいつものアレだろ」と理解してくれる仲間がいる。だからこそ、受け手のことを信頼してストレートに話ができる。自分の考えを発信する上で、学校って大切な空間ですね。

大人でも好きなことを好きなだけ語ってOKな環境を持つことが人生の幸福につながると思います。

〜その2〜 学生は未来から来た先生である

子供は未来からの留学生

ベネッセ創業社長の福武哲彦氏の言葉。

まさに同じことが頭に浮かんだのが、ディスカッションの休憩時間です。

学食では数人の高校生が机を囲んで集まっている(土曜日)物理的には同じテーブルを囲んで座っているが、それぞれがスマホやタブレットで違うゲームをしている。その上で、一言、短く言葉を交わす、みたいな風景がありました。

また、「流行っているアプリやゲームあるの?」と私が聞くと「それぞれですね。お互いどんなのやっているか知りません。たまたま同じこともある」と回答が返ってきました。

教育改革がどうこう叫ばれていますが、そんな大人の事情に関係なく、学生たちは自分たちの人生を生きていますね。つまり、便利なテクノロジーがあれば使う。自分にとって楽しいことがあれば、自ら進んで情報を取りに行く。

大人が議論している学生より、リアルな学生の方が自分の意思を持っている気がします。(学生と一括りにするのは乱暴ですが)

ともすれば「一緒の空間にいるんだから、会話しろ」とか、「スマホばかり見てないで、目を見て話せ」みたいな常識(と思われている)が、頭をよぎります。

が、彼らにとっては、何も違和感がない普通のことです。私が子供の頃にはなかった、テクノロジーが彼らには当たり前のようにあるわけです。そりゃ常識が違いますよね。

しかし「常識が違うからね」と話を終わらせてはいけない。

当然、通じないことも多いですが、そこから一歩踏み込んで、通じることを見出すことが自分自身を磨くことにつながると感じます。

つまり、高校生を鏡として、不易(人として大切な原理・原則、本質)と流行(時代によって変わる常識)が何なのかを見出すことです。

流行という意味では、身近なことでいれば、人志松本のすべらない話、ミルクボーイ、ドラゴンボール、野球・サッカー。これらは、例え話として話題にしても、全員には通じませんでした。(数人は理解している)

国民が共通して知っているコンテンツがある、という常識は平成初期で終わったんでしょう。これからドラえもんやアンパンマンも通じない世代が当たり前になっていくんでしょうね。そのうち、「学校」という言葉も全く違った意味を持つようになりますね。(すでに変わっていますね)

一方、不易の部分で考えると、たわいもないことですが「笑顔で挨拶をした方が、関係構築ができる」は通用すると思いました。(通用しない時代が来るかもしれないですが)

「人として、当たり前」と自分が思っていることが通用するのか。高校生たちは、それを教えてくれる存在だと思います。

〜その3〜 勝手に背中を押してもらったよ

あっという間にイベント終了。

終えてみて、ありきたりながら「変化し続ける」必要性を感じました。とにかく高校生たちは新しいことを受け入れること、試すことに躊躇がない。

「便利なものがあるのに、なんで使わないんですか」

高校生との話の端々からそう言われている気がしてならない。環境は私も彼らと一緒である。むしろ金銭的自由は彼らよりある。選択の問題。

VRとか、新しいテクノロジーに関して、何かと理由をつけてやっていなかったりする。やらない理由がない。やってみましょうよ、と誰かに言われたわけではないのに、そう言われた気がします。

「我以外、みな我が師」ではないですが、
高校生たちは、私の先生でした。

貴重な機会をありがとうございました。

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