親友にブロックされていることを知った日 ~追記~
SNSあるあるなのかもしれないけど、
私は今、動揺している。
私のInstagramの数少ないフォロワーのうち、
親友の1人が表示されなくなったことに
気がついたのだ。
フォロワーから消えたあの子は
学生時代に仲が良かったメンバーの1人、
いわゆるリア友だ。
あれ?インスタ辞めちゃったのかな?
と思い、共通の友達のアカウントを見てみる。
以前は、共通の友達が全員表示されていたのに
「その他1人がフォローしています」
としか表示されていない。
ということは、
共通の友達のことはフォローしたままで
私をブロックしているということだ。
親友たちは全員、学生時代からインスタのアカウントはもっているものの、投稿するのは私だけ。
ほかのメンバーはほとんど更新せず、
いつの間にか見る専門になったようだ。
親友は
「さらちゃんのインスタみて癒されてるよ〜」と
言ってくれていたが、
もしかしたら
本音では嫌な思いをさせてしまったのでは?
と思ったら 申し訳なく悲しい気持ちになった。
私がインスタに悩んで辛かった日々
本当のところ 私の思い込みの可能性も十分ある。
なぜ私はこんなことを考えてしまったのだろう。
実は
私自身がインスタで悩んでいた時期があった。
他人の投稿を見ると 無意識のうちに自分と比較してしまい、嫉妬や妬みの感情がこみあげてくる。
人と自分を比べ、勝手にモヤモヤ・イライラしてしまう、そんな自分が一番嫌いで納得がいかなかった☁️
もうインスタを開いて見るのをやめようと思っても、知り合いをブロックするのも気が引けてしまいうため、モヤモヤする対象をミュートにしていた。
だからこそ、自分の投稿を目にした人には
不快な思いをさせたくないと思っていた。
投稿する前には 一呼吸おいて、
自慢話になってないか確認し、
自分なりに細心の注意を払っていた。
自身の経験から、SNSは受け手の感性によって見方が変わるものであることは十分理解しているし、
心がモヤモヤするくらいなら、たとえ親友だろうと義理でフォローする必要はないと思っている。
ブロックして非表示にするということは
義理にも耐え難く、よほど目にしたくなかったんだろうと推測した。
表示されなくなった親友に対しては、
なんで?という感情よりも
自分自身が苦しんだことと同じような思いを
大切な人にさせてしまったのかと思ったら
とても悔しく悲しい感情になってしまったのだ。
そもそも なんでインスタやってたんだろう?
私のインスタ投稿といっても、
世間のインスタグラマーさんみたいに
有益な情報を提供するわけでもない。
たとえば
美味しいものを作ってみたとき、
新しいものを買ってみたとき、
部屋の模様替えをしてみたとき、
お花を買って部屋に飾ったとき
会社に行くコーディネートなど
新しいことをやってみたり、
我ながらセンスいいかもしれない?
と思ったことを時々投稿している
全く統一感のない
小さな小さな趣味アカウントだ。
華やかでもないし、
充実した暮らしを自慢をしたいわけではない。
むしろ、
不自由な環境で
いかに自由を見出すか、
楽しみを発見できるかが
私自身の日々の課題であり、
自分なりに
これはうまくできたかもしれない✨
と錯覚したときに
誰かに共有してみたくなる。
そんな気分になった時に気まぐれで投稿していた。
冷静に考えると、ただの自己満足アルバムだ。
「発信者」への憧れ
この際、私自身が抱えている「発信すること」への
執着と本音を冷静に分析してみた。
執着してしまうのは
「発信者への憧れ」があるのだと自覚した。
私は、経済評論家の勝間和代さんが大好きで、
YouTubeは3年前から全て聴いてるし、
書籍もほとんど読んでいる。
月に1度のYouTubeでの勝間塾公開LIVEも
心から楽しみにしている。
勝間さんみたいに、日常のどんな些細なことであっても 試行錯誤を繰り返し、毎日0.2%だけでも改善し前に進むという考え方に、私はいつもワクワクしていている。
私が日々、勝間さんから勇気づけられているように、私も前向きで有益な情報の発信者になりたいと
心のどこかで強く思っているのが本音だ。
そして、私がいま感じた些細な気づきを どこかに表現したいという欲求があることに気づいたのだ。
自由になれる場所を探し求めて
思い通りにならない毎日を受け入れ、
そんな毎日でも笑顔で楽しめるヒントを
いつも探している。☺︎
自分がやりたいことを自由にやりたいと思う反面、
大切な人に嫌な思いをさせるくらいなら
何もやらなきゃよかったって後悔している。
SNSのフォロワーに知り合いがいるかいないかにかかわらず、不特定多数の人が目にすることを承知の上で、発信するときには 自分なりに一旦立ち止まり考えているつもりだった。
それでも
フォロワーの中に知り合いがいるフィールドだと、なんだか恥ずかしくて表現を躊躇してしまったり、カッコつけて猫をかぶってしまう気がしていて、
それはそれで もどかしさを感じていた。
見栄を張らなくてもいい、
知り合いに気を遣わなくていい、
そんな表現の場が欲しかった。
これが
私がnoteを始めた大きな理由だ。
だから もちろん、
私がこのnoteをやっていることは、
身内を含め、誰も知らない。
知り合いがいない場だと
こんなにのびのびと
自分の本音を素直に表現できるんだと喜んでいる。
だが その一方で、
知り合いの有無で表現が変わってしまうような
見栄っ張りで自信のない自分の弱さにも気付かされた。
noteを読んでくださっている方の中にも
こんなモヤモヤな気持ちを経験した方がいらっしゃるのだろうか....
もしいらっしゃったら
❤︎やコメントをいただけたら励みになります。
*_________✳︎
長々と心の叫びを書いてしまったが
Instagramについては、私はもう
この際、やめてしまおうかと悩んでる。
いざ、手放そうとしたとき、
少しずつ積み重ねてきた ちっぽけな足跡を振り返ったら 少し寂しい気持ちにもなった。
気にしすぎなのかもしれないが、
いったん 距離を置いて、
自分自身が心からハッピーでいられるよう、
ひとまず前進したいと思っている。
明日は今日よりも ほんの少しだけ
マシな自分で過ごせますように。
🔚
〜追記〜2023.11.6
Instagramを少しお休みし、
自分がどうしたいか、考えていたところ、
決定打となる連絡があった。
久しぶりにインスタを開いた母からの
「大好きなミッフィー部屋(私のインスタアカウント)があった♡」というLINEだ。
母はいつの間にかフォロワーになっていて、
毎回リアクションをしてくれていたが、
私の仕事が忙しかった数ヶ月前に
インスタ投稿するのやめたんだ。と伝えていた。
その時 母は
「なんだべ〜。せっかくめんこいのに」(福島弁)と言っていた。
母は久しぶりにインスタを開いた時に、
辞めたと思った私のアカウントが
まだ存続していて嬉しかったみたい。
私の創るものが、せめて身内だけでも
可愛いとか面白いって共感してもらえる。
そんな媒体を大切に持っててもいいかな、
と思えた。
そして何よりも
私自身が 不器用ながらに時間をかけて創ったものへの愛着があることに気がついた。
そういうわけで
フォロー&フォロワーを整理し、自分にとって楽な仕様にしてアカウントを存続させることにした。
とりあえず、好きなことを好きな時に
のんびり楽しんでいこう。
他に素敵な人のアイディアを見つけたら
「へぇ〜!ヒントget!」と思って
自分もマネしてやってみたらいいべした!
(福島弁)
ようやく肩の力を抜けた気がする。
悩んだ過程を散々書いてしまったので、
結局どうなったのか、結論を追記してみた。
さんざん悩み、考え抜いてたどり着いた答えは
いつだって私は 自分の感性に正直でありたい。
ということだ。