某国際開発銀行の投資部門で数年働いたので少し振り返ってみる。
途上国開発金融といえば、まず浮かぶであろう某国際機関で投資担当官として働いている。途上国の民間企業に融資や投資(株式出資)を行う部署である。これから書きなぐりで拙い文章ではあるが日々の業務・感想を述べる。今後この機関を目指す金融業界出身の人達や途上国開発に携わる人たち全般向けの参考(または息抜き)になれば幸いだ。
結論から言えば、この機関に入って経験できていることは素晴らしいと思う。他の会社・場所では経験できることではない。自分は本当に運が良いと思う。採用していただいたことには本当に心から感謝している。開発業界において、この機関の待遇(給料、手当)も申し分ない。ただし、やはり、「慣れ」というものを恐ろしいものだ。最近は何故か幸せではない。自分でもなぜかあまり分からない。言語化は難しい。
現在、同時並行で4件の新規投資案件、6件の投資済みの企業のモニタリングを担当している。どれも重要度が高い案件で、日々タスクの優先順位を決めることだけで頭のリソースが多めに消費される。小さなタスクが無数にあり、それらを毎日少しずつ完了していくことで、やっと投資資金が顧客へ届き、彼らはその資金を基に成長を続けていく。とんでもなく地道で地味な作業が永遠と続くのである。目立った作業でもないし、知的好奇心が駆られる作業は少ない。何かしら自分なりにうまくモチベーションを見出す能力が問われる。これは難しい。社内用書類で綺麗な文章が書けた、綺麗な財務分析ができた、社内の承認が上手くいった(上司をうまく説得できた)といった一過性の自己満足に定期的に自分を浸らせながら精神的な推進力を維持していくのである。上司から仕事が遅いと指摘されることも多くたまにうんざりする。皆忙しいなかで頑張っているのだから、少し許してほしい。本社と現地オフィスのやりとりにも時差のせいで非効率的な形で時間が奪われる。リモートワークとなり、現地でのデューデリジェンスに行けなくなり、クライアントとface to faceで話すことが無くなり、仕事の愉しみの大部分であった小さな会話(small chat)が無くなった。モチベーションの維持が課題となっている。
具体的な作業としては、財務分析・モデリングの作成、事業分析、融資の契約条件の交渉・締結、投資・貸出実行の手続き、担保取得の手続きなど、様々な検討事項が多くある。社内向け資料が9割である。顧客向けに資料を作ったことは殆ど無い。プライベートエクイティファンドの投資業務と非常に似ている。スポーツに例えるなら、トライアスロンやマラソンである。精神的・肉体的体力がこれまでの仕事よりも問われることが分かった。
やりがいが見いだせなくなってきた。初心に戻ってみると、自分がこの機関に入った理由は一つ。自分は大学生の頃に、絶対的貧困を解決することを自分のライフミッションとして掲げた。それがこの機関のミッションと一致したからである。せっかくこの世界に生まれたのだから、大きな夢・目標を持つ方がワクワクすると思ったからである。路頭で迷う貧困者、それを救おうとするNGOの活動を世界各地を旅行するたびに目にし、それらの映像や広告をテレビや道端でいつまで経っても目にするのにうんざりしていたからだ。彼らを目の端に置きながら、自分だけ良いホテルに泊まって観光客気分でいるのが耐えられなくなった。
困窮者を必死に救おうとする世界中の人々のひたむきな・純粋な心の裏に潜んでいる彼らの無念さ・悔しさを知っている。彼らの多くはなけなしの給料で、自分の家庭を犠牲にしながら世の中を少しでも良くしようと日々文字通り人生を賭けている。そして、彼らを横目に見て、「どうせ貧困は無くなることはない。人間は欲まみれの罪深い人間だ」という現実主義論や性悪論、「途上国支援をするならまず自分の国の問題を取り組んだらどうだ。世界中に問題があるのになぜその問題に取り組むんだ。偽善じゃないか。自分の生活を犠牲にしてまで取り組むなんて自分にはできないな。」といった偽善論を投げかける人々とのやり取りが永遠に繰り返されることに辟易している。
こんなことをぐだぐだ議論している暇があったら、目の前の苦しんでいる人達を救ったらどうだ。評論家はこの世には要らない。偽善であろうが構わない。苦しんでいる人がいるのであれば、救うのが当たり前だろう。その道徳観を無くしたら人間社会は崩壊する、という信念があるからだ。思い込みでも構わない。行動を起こそう。
根本的な問題に取り組みたい。本質的な問題に大規模な形で取り組みたい。自分はそれだけの気持ちで今まで動いてきた。自分の給料、生活水準、名誉・名声など、どうでもいい。絶対的貧困レベルにいる人々に比べれば、自分の悩みなど本当にちっぽけなものなのだ。
この機関に入って、実際に途上国企業向けに数十億単位の大規模な資金調達を支援することができた。その資金が現地の人々の雇用維持・スキルアップ・所得向上に繋がれば嬉しい。それらが、従業員一人ずつの家族を支える資金となり、彼らの幸せの維持、悲しみの軽減に繋がり、いずれは国全体の貧困削減に少しでも寄与するのであれば私はすごく嬉しい。彼らの子供の一人が、その資金を基に十分な教育を受け、将来の社会で何かしらの革新的な変化を起こす人間になるかもしれない。少しずつ、開発効果は表れてくるはずなんだ。もっと早く、もっと大きく、効果が出てきてほしい。早く問題を解決したい。その焦りと欲が混合し、この地道な作業に疲弊しつつある。自分が目を閉じて人生を終えるときに、次世代にごめんなさいと言うことになるのだろうか。自分はその責任の全てを負う必要はないかもしれないけれど、何も変えれなかった自分の能力不足さを嘆き、後悔するのではないか。結局、努力し続けるしかないのだが。
日々の小さなタスクだけに着目するのであれば、やりがいを実感できることは無い。したがって、こういうことを書きなぐることで、おそらく自分は何かしらの満足感・やりがいを得ようとしているのであろう。自己承認欲求の一部なのだと思う。自分もまた醜い、弱い人間なんだなと自覚せざるを得ない。いつ絶対貧困が無くなるのかもわからないのに。自分のライフミッションなど達成できるわけがないという声が反芻する。早くあきらめて、良い生活に戻ったらどうだという声。暗闇の中、まさに光を求めながら生きている気がする。
私生活もかなり犠牲にしてしまっている。もっと良い生活をしたいと思っているパートナーもいる。ただ、自分の夢を追うことを支えてくれるパートナーには感謝しきれないとともに、申しわけない気持ちで毎日一杯である。日々のタスクに追われ、上司からもたまに叱られる。上司は自分のような志を掲げて仕事をしているのだろうか。それとも、諦めて淡々と仕事を続けているのだろうか。プライベート重視の価値観に染まってしまったのだろうか。妙な正義感に駆られて、こんな道を選んだ自分は馬鹿なんじゃないかとたまに思う。自分のパートナーをいつかもっと幸せにしてあげたいと、心から願っている。いつか、いつか、というなぜか不屈な精神が自分の原動力となっている。この精神力がいつまでもつか分からないが、とりあえずもがみ苦しみながら頑張りたいと思う。なんとかなることはないが、なんとかなると矛盾的な思いを抱えながら頑張っている。
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