12/26 山月記を10年ぶりに読んだし,相も変わらず俺は虎予備軍。

山月記は確か,中学の教科書に載っていて,強く記憶に残っている。
中学の教科書に載っていることを覚えているなんて,相当だ。

あの頃僕は教科書に載っていた中国古典モチーフの教訓めいた話が大好きだったので,それらは真面目に読んでいたが,他の古典を漁ろうだとか,そもそも本を買って読みたいだとか,思っていなかった。
確か「朝の読書」みたいな学校の行事で「人間失格」を読み通したが,当時の僕の人間性は浅く,記憶に残っていない。

そのうえで,わざわざ帰ってきてしまった,山月記に。

読み終えた最初の感想は,短いこと,である。
文庫本のページ数でたった9ページしかない。
なのにメッセージ性は強烈だ。
そして蛇足めいた部分が一切無いので極めて簡潔である。

そして二つ目に,「自分の中の気づかれたくない部分に,気づかれた気がした」というのが率直な感想である。
これはおこがましくも虎になった李徴と自分を重ねたうえでの感想である。

その部分に関する引用を貼りたい。

何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。

青空文庫より引用 https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html


少し,山月記という作品そのものに関する話を書く。
山月記のストーリーの大枠は,中国の古典,人虎伝をもとにしているそう。
「じゃあ二番煎じじゃん,原作読むわ」と言う原理主義者もいるかもしれない。

僕も原作を汚してほしくないと思ってしまう原理主義者だが,
山月記に関して,僕はそうは思わない。

というのも,大好きな漫画が実写映画化されるのとは訳が違う。

「人が虎になる」というストーリーのように,場面展開はほぼ同じなのだが,李徴の心理的な描写が大きく違っている。
そして,その描写こそが,中島敦であり,作品の本質なのだと,同じく彼の作品である「李陵」「名人伝」を読んでからこそ,わかる。

脱線するが,名人伝は上の二つとは毛色が違い,物語的な面白さに寄っている。だから「名人伝を読んだ」と書いたのは,僕が「名人伝を読んだんだぞ」ということを外界に喧伝したいというエゴに過ぎない,と上の文章を書いた5秒後に思ったりしたが,

ただ,李陵に関しては少し長いものの,「その心理を書くのか…」という主人公の心の描かれ方の点において,山月記と似ている。
(司馬遷の話は蛇足かなぁとも感じるが)

おもんない大学生風に言うと,「エグいてェ!」だ。

山月記の原作との違いや,日本語訳については
下記引用noteが,大変素晴らしくご説明されているのでこちらを読んでほしい。


話は戻り,僕が本書の中で一番クリティカル,本質的だと思う節はこれだ。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

自分に才能がないことが明らかになることを恐れるがゆえに,努力して磨こうともせず,自分に才能があることを半ば信じているがゆえに,特に突出した才能を持たない人々とともに切磋琢磨することもできなかった。

思うに,創作における人物の内面というのは,作者がそれを想像できなければならず,ともするとそれは作者自身の考えなのではないか。
というところがあるので,僕は中島敦の中にもこのような性格があり,それを自ら認識して書いているのではないかなと思う。

そして,中学のころからこの作品を覚えている人間の中にもきっとその性質はあり,そしてそれに気づいていても,口に出せるものではない。
また、創作として書くだけでも,その人の中にそういう性質があるのではないかと勘繰られることは前述したように、想定できる話である。

つまるところ,俺はこの人がすごく好きだ。



ちなみに,李徴には本当に才能があった。勉学においても,詩作においても。
ここは少し面白いところで,一般の,教訓めいた作品であれば,
「実は才能がなくて,それに見合わない自尊心のツケを払わされる」
みたいなストーリー展開になるだろう。

なんでこんなことを書いたのかというと,傲慢にも李徴に自分を重ね合わせていた自分が,少し救われたような思いがしたからである。
そしてもしかしたら,中島敦自身も同様の自尊心を持っていて,そういう意図だったかもしれない。
いや,勝手に同じ穴の狢にするのはやめよう。


あとクリスマスなので,ゲオでDVDレンタルしてポケットの中の戦争を観た。
僕は金払って観てる場合に限って好きに感想を言う権利があると思っているので好きに書くが,正直過大評価されていると思う。
主人公のアルが家庭の事情諸々を考慮しても愚かすぎるし,学校のパートが,最後の全校集会のシーンを加味しても,さすがに冗長だった。

しかしバーニィの心理の変遷は,確かに面白いところではあった。


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