ははのこと
母は戦争中に中国で生まれた。
母の父、私の祖父はパイロットだったそうだ。
中国では裕福な生活をしていたらしい。
現地のお手伝いさんを雇い、
周りを塀で囲まれた敷地内に
この字型に建てられた住居に
三組の日本人家族が住み
賑やかに暮らしていたんだそうだ。
お手伝いさんからは
本番の水餃子を教わり
それは未だに我が家の定番メニューだ。
ニラと白菜を大量に刻んで
サラシに包んで思い切り絞る。
(これが一番大変)
それと同量の豚挽肉と混ぜる。
味付けはにんにく、生姜、味噌、
醤油、胡麻油。
あとは普通に包んで
たっぷりのお湯で茹でて
酢醤油と好みの辛味で食べる。
餃子の皮は厚いものが良い。
私が小学生になる前くらいまでは
皮も手作りだった。
皮は炭水化物、すなわち主食なので
ご飯は食べずに
ひたすら水餃子だけを食べる。
のが、本場の食べ方。
子どもの頃は
年子の姉と
数えながら食べた。
祖父は、『日本は戦争にまける。
だからそれより先に日本に戻ろう』と家族を連れて終戦前に帰国した。
祖母はまた中国に戻れると思っていて家財道具を置いて来たことを後々悔やんでいたそうだ。
この辺りの話は
母は当然記憶に無いので
祖母や、母の兄などから
伝え聞いた話である。
戦後はそれなりに苦労はあったけれど、飢えることは無かった。
祖母の実家は米軍に接収されるほど
大きな屋敷だったと母は言っている。
祖父は血圧が高く、
四十二歳で亡くなった。
母は当時十二歳。
未亡人になった祖母は
祖父が働いていた会社の
役員秘書になり、二人の子どもを
育てた。
母は働く祖母の代わりに
家事を任された。
叔父は成績優秀で、母はいつも
比べられていた。
高校を卒業して
母は祖母と同じ会社に就職し、
そこで大阪から上京した父と
職場で出会い結婚した。
3年半前に
父が亡くなってから
母と話をする機会が当然増えた。
上に書いたざっくりしたことは
知っていたが、それに付随する
小さなエピソードを
聞かせてくれるようになった。
懐かしい思いと
寂しい思いと、
そして悔しい思いや悲しみが
ごちゃ混ぜになってる話だ。
楽しそうに話したかと思ったら
憎々しげな表情を浮かべたり、
母の気持ちは不安定だ。
思い出を話して
楽しくなるならば良いけど
悲しくなるなら
話さなくても良いのだが、
多分母にはコントロールは
出来ないのだろう。
大正生まれにしては
祖母は背が高く、すらっとした
モダンな人だ。
おしゃれが好きで社交的。
対する母は
背が低く、どちらかと言えば
ぽっちゃりタイプ。
顔も祖母ではなく
祖父に似ていて、
似てない母娘の代表みたいな
感じだ。
その見た目を祖母はじめ親戚から
散々悪く言われたらしい。
色が黒いとか
太っているとか。
それで母は自分は醜いと思っている。
だからおしゃれをすることを避けて生きてきた。
着飾るのは見た目に拘る卑しい行為だと、はっきりは言わないが私もそう教育された。
その根本は、祖母からの心無い言葉が原因だったのだ。
全く下らないルッキズムに囚われていて、呆れる。
私もお陰で、派手な服は一切着たことが無い。無難で、周りから浮かない服を選んでいる。
変わったことをすると、母から
非難されるからだ。
祖母は早くに夫を亡くして
頼りになるのは息子だったのだろう。
これがまた、叔父がど真面目な人で、頭が良い。
祖母は叔父は当然とばかり
大学に行かせ、
母も成績は悪く無かったのに
馬鹿呼ばわりだった…らしい。
母は『謙虚』が好きで
『自慢』が大嫌いだ。
つい最近、母は中学高校と
学年トップの成績だったと聞いた。
何故今まで話さなかったのか?
自慢になるから?
言うことは謙虚でないから?
でも、それを話す時の
母の表情は
満面の自慢顔だった…
今どきの言い方を借りれば、
完全にこじらせてる、
だと思う。
自己肯定感が著しく低く、
承認欲求の塊で、
それを全て娘の私にぶつけて来る。
あー、めんどくさい。
でも聞いてやらねば。
あの世にいる祖母に
お願いしたくなった。
『頼むよ、おばあちゃん!
お母さんをもっと褒めてやってよ!!!』
父が生きてる間は
父との生活に埋没して
自分のことを
振り返る機会も時間も
無かったんだろう。
一人になって、
時間ができて、
気づいたら
自分と兄貴以外は
みんな亡くなって。
色々思い出すと
良いことばかりでは無いんだろうな。良い思い出しか無い人なんて、
居ないと思うけど。
そういう考えには
母はもう及ばない。
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