こうなった原因は自分で考えるべきなのかどうか
「因果推論の科学」を読了したので記録しておく。
著者はジューディア・パール。コンピュータ科学者であり哲学者だそうだ。
因果推論という一見難しい(実際私にとっては難解だった)内容だが、ところどころ身近な事例を挟み、最先端の因果推論の科学を理解できるよう歴史を辿りつつ解説してくれている。
現象が起きる原因が何であるか人間は自然に推論し、当たり前のようにその情報を扱うことができる。しかしそれをコンピュータに理解させることは難しい。なぜか。そして因果を理解できるようになった暁にはコンピューターとどのように人間が付き合うべきなのかー
AIの飛躍的な進歩に注目が集まって久しいが、今のAIはまだ、人間との違いが明確だそうだ。人間がチャットなどのやり取りを通じて、相手が本物の人間か、コンピューターかを判定する方法を、チューリングテストと言うが、今のAIはまこれをクリアできない。しかし、このテストをパスするコンピューターが現れるのもそう遠くないとのことだ。
我々の脳が本当に複雑な情報処理を担っているということに感動した。人間は元来、ある事象の原因が何であるか推測する能力非常に長けているそうなのだ。
引用;
たとえば、「ニワトリは朝が来たから鳴くのであって、ニワトリが鳴いたから朝が来たわけではない」ということは、数式でどう表現すれば良いのか。
朝が来たからニワトリがなくということを深く考えずとも私たちの脳は当然のように理解することができる。何が原因で、何が結果か、そしてその逆ではないことを感覚的に判断できる。
だがコンピュータにはそれはできない。2+3=5であり、5=2+3なのだ。イコールで繋げる関係は、前後を入れ替えても成立するものであり、数式を理解するコンピュータに因果を理解させるのは難しいらしい。この原因の後に結果がくるという時差をどう表せばよいのか、歴史と段階を追って説明してくれている。
読了したといっても実際のところ半分も理解できていないと思う。
だが考え方を身につけることがとても大事だということがわかった。
以前の記事で一次情報にアクセスすることの重要性を書いた。
一次情報にアクセスした後に、どう考えれば良いか、答えはこの本に書いてある。
ただのデータの羅列と睨めっこして、何かしらの主観的な意見にそれを転換するまでの、最も大事な過程を担うのが因果推論だ。
ここで非常に重要なのは、導き出された主観的な意見が何に使われるかというところだと思う。因果関係の使い方は大きく分けて2つある。
1)私たちは因果関係を知ることで、出てくる結果をコントロールしたいと思っている。
例えば、病気の原因が何かを知ることで、病気にならない手立てを考えようとする。喧嘩になってしまった原因を知ることで、次は同じ状態にならないように、経験を活かそうとする。
2)私たちは因果関係を知ることで結果に対する責任を明確にしたいと思っている。
銃を打とうとしている者から逃げている途中で、上からピアノが降ってきて死亡した場合、被害者の死への責任は誰にあるのか。原因を作ったものに結果への責任をとってもらいたいと思っている。
導き出される主観的な意見がこのように使われると思うと、因果推論が本当に重要で、正確かつ公平である必要性が理解できると思う。
ただここで思ったのは…
自分の専門の分野にならまだしも、個人レベルで専門外の分野には全く実用できなさそう、ということだ。専門外だと、そもそも、一次データにどうアクセスすれば良いのかだってわからない。どうすれば良いだろう。
こんな文に騙されたくない、と思う。
「肺がんになった人はみな、朝食を毎日食べていた。
だがタバコを吸っていた人のうち肺がんになったのはわずか半分であった。」
これではまるでタバコよりも朝食の方が肺がんの発症に影響してそうに聞こえてしまう。世の中にはこう言った、からくりのような文言が溢れている。
だが検証しようにも、専門外のことはデータの集め方さえわからない。
そのために私たちは、専門の人の力を頼っている。
あの人が言ってるからにはおそらくそうなのだろう。そう信じて、行動の判断をしていっている。
政治家の発言も、メディアの報道も、事実と論理的な推論に基づくものであることを願う。プライドを持ってそこを死守して欲しいと思う。
悲しいことに結局視聴率だったり、わーっと人が群がるところにお金も注目も集まる。そのために根拠のない主観を派手に表現したり、その場しのぎのことを言ったり、あるいは判断が下されたりする。
自分にできることは、少しでも理論的な思考を勉強して、破滅した論理に騙されないよう目を光らせておくことかな、と思う。