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どうして結婚してしまったのだろう
結婚の社会学
という本を読んだ。
読み終えてから、結婚について碌に考えもせずに結婚してしまったことに猛烈な後悔を覚えた。
いや、夫の名誉のために書いておくが、夫と結婚したことに後悔したわけではない。
ただ。
なんとなく自分は結婚するものだと思い、恋愛をして、結婚をし、神前式で式をあげ、なんとなく子供を産むものだと思い、産んで、気づいたらここに居た自分が、いかに世界の仕組みを知らず、何も考えても居らず、ただ流れに身を任せたばかりであったか知ってしまい、なんだか悔やまれたのだ。
もっと多様な切り口で考えた上で意思を持った選択をしてきた人生でありたかった。
そもそも、結婚とは何なのか。
昨今正義とされる、恋愛→結婚→子供→ただ一人と愛し合い一生を添い遂げる、という結婚のモデルは、過去100年以内に出来上がった、人類の歴史からみると本当に最近のことらしい。
そもそも、「妾が居るのが普通」「女遊びをするのが普通」「夜這いで嫁を見つけるのが普通」「お見合い結婚が普通」「結婚までに乙女を捨てておくのが普通」「結婚まで乙女であるのが普通」など、土地の違いや文化の変遷に伴って結婚に関わる価値観は変化してきたのだ。かねてからの土地の風習が、西洋の宗教の影響を受けたり、政治的な意図が働いた結果、様々な価値観へ移り変わっていったそうだ。神前式という形態も、戦後にようやく庶民に浸透したものだというから驚きだ。1000年の歴史があると思っていた。
私の思う普通の結婚、というとのは、最近になって誰かの意図により作り上げられた社会システムの一部だったわけだ。
私は、知らぬ間に、誰かに刷り込まれた、「正しい」モデルに喜んで自らハマりに行っていた。
たまたま自分がストレートだったことも一因だろう。
今、法律上「正しい」とされているモデルは、古く、排他的で柔軟性のない、日本の悪いところを圧縮したようなモデルなのに。(過去には機能していたと言える点については本書でも言及している。)
いや、もちろん、今の生活はシンプルながら満足しているし、こんなにものらりくらりと生きられている日本社会に、ありがたみは感じている。
しかし、反省したのだ。結婚することと、共に暮らすことは何が違うのかさえ考えなかったことを。
結婚とはケアである
結婚とは何かを、掘り下げて行くと、本書の中ではケアのあり方へ話が展開されていく。
結婚によって日本の社会制度上では、たとえば財産の分与や、共同親権をもつことができるようになる。確かに言われてみると、これはケアの話以外のなにものでもない。
本書では、日本の結婚制度が、恋愛関係になった男女に対してのみ、しかも女性が歴史的・社会システム的背景から弱い立場に固定されて行われていることに対して大々的に疑問を呈している。(姓を変更するのはいつも女性の方、など)
ストレートの男女の性的な関係にのみ「家族」の主たるケアという機能が存在しうると法律上定義づけられている…なんだか、おかしな話だ。すごく古い。
なぜ、法的に認められる「友人」はいないのか?
今の日本の法律上の「ケアしあいながら共に暮らす共同体」の定義、狭すぎやしないか?
「能天気な自分」をケア
本書を読み終わって、歴史や背景を知らないことがいかに人生の選択肢を狭めるか改めて、痛感した。
あのときもう少し勉強していれば…。。
後悔先に立たず。
しかし同時にこうも思った。優柔不断な私が、結婚の社会学についてもう少し知っていたらば。
果たして結婚できていただろうか?
どんな形であろうと、誰かと家族を営むことに踏み切れただろうか…?
今の家族に出会えたことも、当時の自分が考えなしに突っ走れる程度におバカだったからなのは、事実だと認めざるを得ない。
当時の能天気な自分は仕方ないから許してやることにして、これからの人生は、もう少し用心深く意思を持って進めていこうと思うのであった。