瞑想。マインドフルネスと宗教的な瞑想の違い。懸念。
近年、マインドフルネスを始める人が増えました。テレビや雑誌、書籍でも扱うようになりました。それらに対して、宗教家や以前から瞑想に取り組んでいる人のなかで不安視する意見が出ていました。
私も、マインドフルネスには奥深さがあり、軽々に理解できるものではない(解説できるものではない)と思っていました。
昨日の管長日記に理解に対するヒントがありました。
管長日記は、横田管長が受講した藤田一照さんの講義の話から始まります。
『先日久しぶりに一照さんの坐禅講座を行ってもらいました。
題して「打坐入門」 です。
打坐の打は、動詞の接頭語であります。
まず講義では、
「目的のある人間的技法としての 「瞑想と
目的から自由な仏祖の法としての「打坐」」
と分けて話してくださいました。
この目的のある人間的な技法を一照さんは 「習禅」 だ と説明されました。
「打坐」は「習禅」 ではないのです。
目的をもった営みは世間智で行われます。
坐禅は、 仏智の世界です。
世間智ではない仏智を知らないと、 坐禅も何か目的を もった習禅としてしまうことになります。習禅と打坐の違いは、 目的のあるか無しかです。
瞑想といっても同じですが、 心を静める為とか、アン ガーマネジメントというように怒りをおさめる為と か、幸せになるとか、 何らかの目的をもって行われる のです。
それに対して仏智というのは、科学や学問を含めた世 間智を批判し、それを乗り越えるものであります。
仏法の方向性は、世間とは異なるのだと一照さんは強調されていました』
簡単に整理すると、打坐とは、仏智。目的を持たない行為。対して習禅とは世間智。(アンガーマネジメントとか幸せになるとか)目的を持った行為。
同じ瞑想でも、打坐と習禅は異なる。マインドフルネスは習禅である。このことを理解しておかなければならないでしょう。
お寺の瞑想道場に参加する時や宗教家などと話す時に「あなたのやっている事は違うよ」と思われるかもしれません。
けれど、瞑想で心の平穏を求めることは、否定できないと思います。それに、瞑想を始めるまでは目的を意識しているかもしれませんが、している瞬間はただそれを行うことに集中しています。そこは同じではないけど、近いのかなとも思います。
さてどうなんでしょう。
いろいろと教えてください、
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