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そこは夢と現実の行き交う場所
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フリオ・コルタサルの短編集がさる友人から贈られてきたのは四半世紀以上も前のこと。今でも時おり読み返すこの本。
表題「悪魔の涎・追い求める男」木村榮一 訳 (岩波文庫)
この友人の推薦図書であり彼女が訳者の教え子だったことから巻頭には
ボクへ宛てて訳者の肉筆署名まで添えられていました(感謝)
当時のボクはラテン文学といえばせいぜいロルカの詩の数編を知るのみで(それも詳しくはありません)ボルヘスもマルケスも手に取ったことすら
ありませんでした。
当然ながらコルタサルはその名も初めて聞く作家でした。
表題2作品の他8編がおさめられた短編集なのですが、その世界にボクは
うまく言葉にならない不思議を体感し魅了されたのです。
(文学論は語れませんが)
表題2作についてあくまでも主観に基づいて述べさせてもらいます。
「追い求める男」はヤク中の天才的ジャズサクッスプレイヤーと
その友人である音楽評論家が主人公。天才ゆえに即興演奏のなかには
彼にしか感じられない世界と時間軸があり、その孤独感が鮮やかです。
(書籍を贈ってくれた友人によると、かのチャーリー・パーカーがその原型にあるのだとか)
「悪魔の涎」は翻訳の仕事をしているアマチュアカメラマンがある公園で
見かけた不つり合いな年齢差のある少年と女を見かけて、この二人について勝手な想像(妄想)を働かせながらシャッターを切り文句を言われるのですが、家でその写真を現像、引き伸ばしてみるとそこには自身が関わらな
かった場合にあり得たであろう二人の状況が写し出されていた、という話。
(実現はしなかったのだけれどもあり得たかも、という話!?)
この作品に刺激を受けたミケランジェロ・アントニオーニにより
'67年には映画化もされています(邦題・欲望 , 原題・ Blow - Up)
ちなみに「悪魔の涎」の意味なのですが、これは作中に比喩として使われている語で、ゴッサマー(Gossamer)と呼ばれ ”流れ糸” の意だとか。
西洋文化圏で ”穏やかな秋の日などに空中に浮遊するクモの糸” を指して
言うそうです。
幻想文学というのでしょうか、虚構文学とでもいうのでしょうか・・・
現実と夢想を行ったり来たり・・・
訳者の言葉を借りると行ったり来たりしつつ、いつのまにか紙の表から裏へ導かれているような。
(やはり解説文から)閉じられた完璧な球体、メビウスの輪。
”こちら” と ”あちら” 現世と彼岸を行き来しているのかも知れません。
「悪魔の涎」は冒頭に収録されているあっけないほど短い
「続いている公園」から発展したようにも想えますし、
バイク事故に遭い入院している主人公が夜、人間狩りハンターに追跡されるという夢を見る「夜、あおむけにされて」もボク的には面白いものでした。
( 否、全作品が面白いのです )
こんな世界観の絵が描けたらよいなあ、と想いながらの現在なのです。