シュヴァンクマイエル『ファウスト』 現実と幻想の巧みなつながりを見る
ヤン・シュヴァンクマイエル『ファウスト』( チェコ・フランス・イギリス 1994年 97分)
見始めは混乱する。
飛び出してくる鶏、割っても空の卵、一瞬だけの嵐。
謎の地図をもとに、中庭のある打ち捨てられたような建物に男が入っていくところから本筋が始まる。飛び出してくる男。ニヤニヤ笑いの老婆。
階段を地下に降りればそこは散らかった楽屋。男は衣装を身につけて、鏡の前で舞台化粧を始める。ここまでセリフはない。
拾った台本を読み上げる。演目はファウスト博士のようだ。不意に、けたたましくベルが鳴り響く! 出番だ。男が歩いて行った先は、劇場の舞台。すでに大入りの客。男は驚いて後戻りし、衣装や化粧を落とす。
現実から舞台へ
戸惑いながらも男は次々に行動する。それを見る我々はいっそう戸惑う。
男の思いがよくわからない。すべては必然の振る舞いのようにも見える。
我々はもうファウストの世界に足を踏み入れつつ、まだ半身は現実の世界に残っていて、ゆえに混乱する。
突然、場面が変わり、屋外のまぶしく美しい林の中の小道を大きな人形の頭が転がってくる。
…全く意味がわからない。
わからないが、この後も何度か同じことが繰り返される。するとそれが我々の中で形式化し、この映画の作法として受け入れられるようになる。この繰り返しパターンは、製作者による絶妙な仕掛けである。
人形の頭はくるくると回転しながら、舞台上の操り人形の胴体に収まる。
人形が語り、男は椅子に座って見ている。彼も、まだ観客である。
ドアを開ければ、トイレ、その先のドアを開ければ、カフェ。そしてまた元の廃墟へと。今や男にの中には、明らかにファウストに則った欲望の芽生えがうかがえる。
呪文、呪文
メフィストを召喚し、男は完全にファウストの舞台に上がる。
しかしそれでもまだ現実はそこにある。ドアを開ければ見慣れた街の通り、人々が行き来している。滑稽な、人形と人間の入れ替わり劇を尻目に、男は街を歩いていく。舞台に戻るつもりはない。彼は現実として悪魔の契約を結び、現実としてその欲望を満たしたいだけなのだろう。
しかし、舞台の方は彼を手放しはしない。男は操り人形として再び舞台へと戻されてしまう。
現実と舞台、人間と人形が激しく交錯する。かろうじて、その繋ぎ目にドアや階段や舞台袖が用意される。どれも曖昧で、魔法の扉というほどではなく、ありふれた大道具に過ぎない扱いである。それが妙を得ている。
操っている者はだれか?
男は何度となく上を見る。
操り人形の糸を引く、何者かの手だけが見えている。
形而上的な者の、比喩だろうか。
人形の頭が転がってくる林もまた、天国や地獄への通路だろうか。
知りたいのは、生命を支配する力
ファウストとなった男の欲望が明確化され、もはや我々も、この奇妙な世界に違和感を覚えずに染み込んでいくのを感じる。
万物の理、生命の根源を見せろ、と詰め寄る彼(ファウスト)に悪魔(メフィスト)はこう答える。
メフィストは言語の限界をきちんと明示するが、ファウストには納得ができない。
おそらく近世まで西洋では、言語世界の先は神性・霊性の領域へ跳躍せざるを得なかったのだろう。その間を埋める概念は、アジアの思想が一歩先を行っていた。たとえば禅宗の悟り。言語界(分別)と超越界(無分別)との行き来を解き明かそうという試みがある。分別を超えた世界を感得する術というものがある。それはけして錬金術や魔術ではない。
名言であると思う。真理はすでにそこにある、見よ。そう言っている。
しかし人間の、普通の感覚ではそこへは到達できない。
さてファウストの行く末は、この映画の顛末はどうなるのか。
抽象的ではなく明確な終焉が用意されているので、気になった方は本編で確認していただきたい。もし劇場で鑑賞したのなら、見終わって外へ出るときには、現実と幻想が奇妙に重なる感覚を味わうことができるかもしれない。
すでにあなたも操られ人形なのだ。
༄ サービスへのお支払いはこちらからお願いします