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地獄のSE。それは10代の狂ったイノセンス。

 予告編を見てから、とにかく気になって気になって仕方なかった『地獄のSE』を観ることが出来た。予告編を何度も何度も繰り返し観ては、頭の中でイメージを過剰なまでに膨らませ、ついに劇場のスクリーンにて。たぶん、同じ気持ちを抱いていただろう人々とともに。こんなに高揚した気持ちで映画館に足を運んだのはいつ以来だろう。

 そして、観終えた。なんなんだ、これは。どうかしてる。いや、とんでもないものを観てしまった。傑作だ、駄作だ、そんな言葉ではかることの出来ない映画。なんだろう、これは事件かもしれない。そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回っていた。結局、何も自分の中で整理できないまま家路へと向かった。

 だから、この先に連ねるレビュー(いや、感想文? )においてどう言葉にするのが一番適切なのだろうか。まずはそれを考えることから始めてみることにした。

論じる?
考察する?
ストーリーを追って解説していく?

 いや、そういう方法ではない気がする。この映画に関しては。頭に浮かんだことをただひたすらに、思うがままに箇条書きしていくのがベストな方法なのかもしれない。映画そのものについてではなく、観ていて心に、脳裏に湧き上がってきたものを思うがままに。それをとにかく羅列し、繋げることで何かがはっきりと見えてくる。そう信じて、進めてみることにする。

10代の頃。中学生の頃。

 初めて感じる生と死という概念。簡単に“死にて~っ!” “殺して~っ!”って言葉を口にしてしまうようなあの感じ。別に本当にそんなことしたいとは思っていないけれど、でもどこかでそうしたいと思う、願う気持ち。それは自分を解放するためのものでもあったり。 “リセットして~っ” “やり直して~っ”ってことにも繋がるような気もしなくもない。

 血の匂い。それはリアルに血の香りがするとか匂うとかでなく、どこか漂うような感じ。それこそ生きてる証の血というか。暴力というもの(身体的にも精神的にも)を初めて実感するのも、血というものへリンクしていくひとつの道なのかもしれない。

 ピュアでイノセントな感情。恋愛感情もしかり。時にそれは妄想を生み出し、時にそれは過剰な愛へと変貌し、時にそれは歪んだ形で姿を現す。自分の中に生まれた純粋無垢な気持ちに対してどうしたらいいかわからなくなるような。その感情をどうすればいいのか。結果、枕に顔をうずめて叫んだり、湯船に沈んでただ声を出しながら息を吐きだしてみたり。

 なんてことない瞬間に生まれた感情を言葉にしたとき、反応してくれる友人がいたり、または自分が反応できる友人がいたり。それが共感だったり、反論だったり、叱咤だったり。あらゆる形でのレスポンスに喜びだったり、悲しみだったり、怒りだったりが湧き上がってきたり。そして、それを笑いあえるような。

 訳もなくイライラすること。モヤモヤした気持ちに自分が支配されてしまうような。そして、叫びながら自転車で坂道を駆け下りる、立ちこぎで爆走する。カラオケボックスで叫ぶような。そして、パンクという言葉を便利に使いたがるような青すぎる瞬間。

 授業をエスケープして、ただ自分と向き合うような、でも実際はぼーっとしているだけのような。“雲になりてえ~っ!!!”みたいな。

 嫉妬という誰かに対して生まれる負とも違う感覚。そこには羨ましいという気持ちが必ず存在していて。でも、つまらない憎しみだったりも共存したり。

 自己嫌悪という形で生まれるネガティブフィードバック。時にそんな自分を愛してみたり。

 学校、クラスという場所を離れて一緒に過ごす時間。枠組みから飛び出した時に生まれる解放感。きっと、大人になっても記憶にとどまっている時間。

 暮らしている街に感じる閉塞感。どこにも居場所がないと感じながらも、ここが自分の居場所なんだと思うしかないあの感じ。周りはみんなバカなんだ。大人なんて信じない。自分だって信じていいかわからない。視界の先にある世界の扉がまだ1枚しかない頃。

 そんな中学生の頃、10代の頃に生まれる思考、芽生える感情、自己が形成されるタイミングで生まれるだろうあらゆるものを原型がなくなるまでミキサーにかけ、その液体を壁にぶちまけるような。その液体の跳ね返りを浴び、ただ立ちつくすような。そんな気持ちにさせられる映画だ。10代(中学生のあの頃)というものを最大限までデフォルメしたような。10代(中学生という時代)をはるか昔に経験している者にも、登場人物と同じようにそこにあることを感じることができるはずだ。この狂気と表裏一体となるイノセントさを。いや、イノセントだからこその狂気か?

簡単に、そしてそれっぽく言うなれば

 簡単に、それっぽい言葉で、そして安易すぎる言葉を使って言うのであれば。日本映画という枠の中に突然現れた異物であり、新しい波、つまりはヌーヴェル・ヴァーグと言える作品であろう。それはストーリーも演技もセリフもアングルも編集も音楽も声も何もかも。独特の間合い。ノイズリダクション(サプレッサー?ゲート?まあ、どれでもいいか)でバッサリと言葉の余韻になるノイズを切り落としたようなセリフの音像。そのセリフを補完するような字幕。音量バランスだってバラバラだったりする。ん???だから、地獄のSE???  ともかく、従来の映画という概念で観ていると理解できないままに終わってしまうかもしれない。実際、途中で席を立つ人もいたりした。

好きです。ラブとして。

 この映画にものすごく印象に残ったセリフがある。

「好きです。ラブとして」。

 ここ最近に観た映画の中でもダントツに焼き付いたセリフだ。

 中学生というまだ世の中の汚れをそこまで知らない、見えている狭い世界の中で芽生えた感情を、こんなに簡潔にストレートに表現できるなんて。恋は盲目と言わんばかりに、それしか考えられなくなる恋心という、それまで抱いたことのないだろう感情の中で精一杯の気持ちを込めて伝える言葉として完璧だと思う。10代というどこにも着地していない、できないあの頃を、恋愛感情におけるシーンで最も的確な言葉でそのすべてを表しているとも思う。”好きです”というメッセージを補完する"ラブとして”という言葉。 “愛してる”じゃない、“ラブとして”。そう、愛なのだ。動詞ではなく、名詞なのだ。完璧すぎるセリフだ!

もし同年代の時に観ていたら、

 そんな風にあれこれ連ねていて、ふと思った。この映画を登場人物と同年代の時に見ていたらどう感じていたのだろう。もしかしたら嫌悪感しか抱いていなかったかもしれないと。なんで神経を逆なでするような映画を作るんだ!”って。大人になって、あの世代のあの感じを俯瞰できる歳になったからこそ、この美しくもグロテスクな『地獄のSE』を受け入れることが出来たのかもしれない。
 でも、やっぱり、10代、そして中学生という若い頃に観てみたかった。冗談抜きに人生観がガラリと変わっていたかもしれない。そして、いまここでこの文章を連ねている、この感情を持ち合わせる自分は存在していなかったかもしれない。もしそうであったのならば、人生観の変わった自分が今になって観たら、どう感じていたのだろう。それはそれで気になる。好意的なのかどうか。

 10代、多感な中学生の頃の純粋すぎる狂ったイノセンスをこんな形で描けるって本当にすごいことだと思う。天才だ。川上さわ。これからが楽しみというか、この先はとんでもないことになっていくだろう。伝説を次々と生み出していくのは間違いないだろう。

 そんな『地獄のSE』を観て、川上さわの描くその世界観にフリッパーズ・ギターと同じ匂いを感じたのは僕だけだろうか。



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