映画『aftersun/アフターサン』を(もう一度)みる。
(もう一度)みる」を書き上げるに至った経緯
1回目の鑑賞直後、逸る気持ちを抑えきれずメモ用紙に書き殴った。
あまりの傑作ぶりにえらく興奮状態だった様子がわかります。カラムが鏡に唾を吐くシーンとアルパカが唾を吐く理由には何の因果関係もないはず。笑 とはいえ説明も描写も極端に排しているからこそ「全てに意味がある」映画だったのは間違いない。正解を導き出すためではなく、あらゆる解釈を許容できる1本。ゆえに字数の許す限り一つでも多く拾い上げていきたい所存。
根も葉もない、虚実綯い交ぜにした考察のコラージュ/応酬でもってとことん煙に巻いてやろうと思います。本連載初となる同作2回目の鑑賞。主宰はネトフリともアマプラとも無縁の存在です。そんなぶっ飛んだ解釈が果たして成り立つだろうかといった半ば観衆の「願い」にも似た感情含め、記事に認めてみようと思います。カオスの中にこそ見えてくるコスモの存在。
もとよりまずシャーロット・ウェルズ自身の中に答えがあるという大前提。ただ、幼い頃に実父を失った経験が作品性に反映されているとインタビューで口にしたところどうもその一点ばかり突かれ始めて、やや彼女の口が塞がれてしまった感は強い。ある種の「アウティング」、メディアの罪は重い。伏線回収や大ドンデン返しに毒された貴方へ送る、心を掻き乱す数千字。
シャーロット・ウェルズ過去作との関連性
2回目の鑑賞に際し、過去制作された3作の短編作品全てに目を通しました。また本作のリファレンスとして挙げられることの多い、ソフィア・コッポラ『Somewhere』も改めて鑑賞。共通点、というよりはこれらのエッセンスが長編デビュー作へ見事に昇華されていた印象で鳥肌モノでした。観ておいて本当に良かった。YouTubeから全作視聴可能です、この機会に是非。
『Tuesday』(2015)
『Laps』(2017)
『Blue Christmas』(2017)
空想と現実のあいだを揺蕩う、未知の映像体験
本作は、35mmフィルムの映像とminiDVの映像から構成されています。一見前者にカラムとソフィそれぞれの視点や考え方が割り振られており、後者はそれを懐かしむための演出なのだと錯覚しそうになる。ところが実際には、miniDVに残された映像だけが「事実」であり残りは全て「31歳となったソフィの感性/記憶によって補完された視点」、つまりは「想像」の世界。
あるいは宇多丸氏の言葉を借りれば「神視点」からみたカラム/ソフィとの解釈もなるほど成り立つ。正解はありません、虚実綯い交ぜで楽しもうや。撮影監督グレゴリー・オーケをフィーチャーしたKODAKのメールマガジンも一読の価値アリ、映画学校時代からの好だからこそ紡ぎ出せる映像美だったことがよく伝わってきます。ガジェット沼の貴方にも是非。
「さかとんぼりのカラム」が描き出すもの
中学理科で味わった、凸レンズの実験を思い出してみて下さい。実像と虚像云々のアレですね。今作では「さかとんぼり」になった、あるいは鏡や窓に反射するカラムが意識的に用いられていた。複数回鑑賞を強くお薦めできる最大のポイントがここですね。いくつか例示してみましょう。例えば冒頭の海で戯れるシーンでは、『犬神家の一族』を彷彿とさせるカットがあった。
カラムの足2本だけが浮かび上がる。他にも鏡に唾を吐く場面や、ふとした食事シーンあるいはマイケルとソフィのキスシーンでさえ興を削ぐかのように反転して映し出されたカラムの姿があった。実像と、虚像。大人になったソフィにも、もちろん観客にとっても「想像で補完する他ない」世界観で。皆さんにはどう映りましたでしょうか、是非コメントでお寄せ下さい。
カラム/ソフィに関する(トンデモ)補足考察
1)カラムが抱えていた"本当の病"とは
カラム=心の病を抱えていた=自死を遂げた、という平面的理解を超えて。パラグライダー、ベランダの柵、スキューバダイビング、バスの前を横切る、飲酒喫煙シーン、過去のドラッグ経験、右腕のギプス、左肩の怪我、真夜中の海に飛び込む場面、あるいは使用楽曲のクレジット等からいくつもの説がネットに渦巻いた。特に驚いた考察は2つ、a)骨肉腫説 と b)エイズ説 です。
幼少期から骨肉腫を患っていた=病院生活=家族とのエピソードが少ない、あるいは肺に転移しやすい病気である=喫煙シーン、右手のギプス+左肩の傷を病的骨折(骨が弱くなり骨折しやすくなる)のメタファーと捉えるという驚くべき考察もYouTubeのコメント欄に散見されました。真偽は別として、意義深い視点だと感じます。"40歳の自分が想像できない"理由の一つか。
さらにQueenとR.E.Mの共通点に「ジェンダー/セクシャリティ観」を挙げ、カラムがエイズを発症していたのではないかという衝撃的な見解もあった。ソフィと元妻以外の女性と話す場面が一切出てこない点、プールのシーンで見かけた老夫婦に話し掛けてみたら?とソフィに訊かれても「嫌だよあんなおばさん」と一蹴した場面にもそれが透けていた、と捉えるのは果たして。
2)ソフィと性的アイデンティティについて
毎年トルコ旅行では恒例行事となっていたカラムとソフィの親子カラオケが、ついに叶わなくなった。R.E.M「Losing My Religion」直訳すれば「宗教/信仰心を失う」ですが、アメリカ南部では「自制心の喪失」あるいは何かに「絶望する」といった意味でも用いられる言い回しなのだそうです。歌詞の解釈も様々で、片思いの歌、信仰心への反発や懐疑、ファンとの軋轢。
思春期エイジのソフィに当てはめるとすれば、「信仰心への反発や懐疑」を表現するプロット・デバイスとして用いられたと解釈するべきでしょうか。自分の目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぎ、肌で感じ取る。大人への第一歩。劇中印象的に映るのは、例えば「体に寄ったカット」が多用されていた点。シースルーシャツ、体毛、うなじ、日焼け止めクリームを塗る場面など。
水着のままカラムと夕食へ出かけるシーンも非常にユニークな演出でした。
レイヴシーンの解釈をめぐる分岐
1)「天国/あの世」のメタファー?
とあるインタビュー記事で、監督がポール・メスカルに「クラブ=カラムが見つけたポジティブな逃避場所」「最初から"自由"を演じて欲しい」という演出を当てていたことが明らかになりました。ポジティブな逃避場所、その意味を敢えて説明する必要はないはずです。幼少期のソフィと31歳のソフィが交錯するシーンでは、サブリミナル的にあの「夜の海」の白波が見える。
2)クラブ=地下=スコットランド・土葬文化のメタファー?
ダンスフロアは地下の階段を降りた先にありがち=地上から見えない世界、つまりプールのシーンと対になっていたと解釈することもできそう。水の中がどんな様子なのかは潜ってみないとわからない。ここから主宰が連想したのは、カラムの生まれた国スコットランドにおける土葬文化でした。正直、かなりメタ推理ですが1)にも通ずる「死生観」がチラつく場面ではあった。
3)ダンスフロアが暗示していたもの
あまり見ない造りのクラブですよね。警察署の長い廊下のようにも、霊安室の入り口のようにも見える。カラムとソフィが空港で別れた映像の後カメラが右にパンしていくと、その先には31歳になったソフィそしてminiDVの電源を切るカラムの姿が映し出される。後ろでは救急車のサイレンが鳴り響く、そんな様子からどうやら後者のニュアンスが強いのではと解釈しました。
語り得ぬものについては、沈黙せねばならない
5,000字も書いておいて何を今更とお思いでしょうが、これ以上はやめときましょう。言葉にすればするほど虚しく響いてしまうような、せっかくの余韻が台無しになってしまうような。何かそんな映画でした。あとこれは全然文句とか根に持ってるとかじゃないのですけど、運良く乱丁版パンフレットまで手中に収めることができましたから。これも何か一生の思い出にと。
次回鑑賞作のハードルが上がりに上がっとりますわ。個人的趣味としては、『To Leslie トゥ・レスリー』『青いカフタンの仕立て屋』『マルセル 靴をはいた小さな貝』『君は放課後インソムニア』辺り非常に気になっとります。映画鑑賞料金改定の波は主宰のホームグラウンドであるシネ・リーブル梅田にも。下半期も話題作ラッシュが続きますが、緊縮財政気味にまいります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?