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ハムレットは普通に「え、元気だけど?」って言ってるだけなのに(透明なシェイクスピア(5))

新訳を出すなら、その使命の一つは、それまでの間違いを訂正することであるはず。
ところが、意外にも、「誤訳」ほどそのまま受け継がれていってしまうという現象がある。
今回は、その話をしようと思います。

「元気だ、元気だ、元気だ」って何?

ハムレットが歩いてくる。「このまま生きるか否か」、悩みながら。
ふと目を上げると、オフィーリアがいる。祈祷書を手にたたずんでいる。
ハムレットは近づいて、声をかける。「かわいい女神さま、おれのために祈ってくれ」(※末尾にちょっと説明つけました)。
苦しい思考からちょっと解放されて、ほっとして。なぐさめを求めて。

それに対するオフィーリアの返答から。
三幕一場です。

オフィーリア         ハムレット様、
 このごろいかがお過ごしでございましょう?
ハムレット よく聞いてくれた、元気だ、元気だ、元気だ。

(白水社版、1980年)

オフィーリア         殿下、
 このごろはご機嫌いかがでいらっしゃいますか?
ハムレット ありがとう、元気だよ元気、元気。

(ちくま文庫版、1996年)

オフィーリア         殿下、ご無沙汰致しております
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。
ハムレット これはこれは、ありがとう、元気だ。元気、元気。

(角川文庫版、2003年)

年代順に並べてみた。白水社→ちくま→角川の順になります。
それぞれあいだに十年前後(いやもっとか)の開きがある。

皆さんにお訊きしたいんです。
「元気だ×三連発」って、どう考えても、ふつうの言いかたじゃないですよね?
1.イライラしているか、
2.頭がおかしいか、
3.その両方。

訳者の先生方は、
それもお三方とも日本を代表するトップクラスのシェイクスピア研究者の先生方は、
そろって、
ハムレットがイライラして、頭のおかしい人間だと設定してしまっているんです。
このシーンで。

違う。そうじゃない。

たしかにハムレットは怒ったり、気が狂ったふりをしたりする。
でも、このシーンは違う。オフィーリアに会って、ほっとして、でもオフィーリアが挙動不審なのでびっくりしているだけ。

そう、挙動不審なのは、オフィーリアのほうだ。
くつろいで冗談まじりに(※末尾の説明見てくださいね)話しかけたハムレットに、驚くほど他人行儀なあいさつを返している。ハムレットがぎょっとして当然だ。

「ウェル、ウェル、ウェル」は「元気だ、元気だ、元気だ」じゃないのに。


原文はどうかと言うと、次のとおりだ。

I humbly thank you, well, well, well.

ハムレット殿下が言っているということをいったん忘れて、普通に訳すとこんな感じ。

これはどうも、つつしんでお礼申し上げます、ていうか何それ。

このwell三連発、驚いたりあきれたりしたときの決まり文句です。
ごく普通の話し言葉。
高~中~低、と声の高さを落としていく。こんな感じ。

す、すみません、私のへたな英語で(汗)。
本格的なのをお聞きになりたいかたは、『ローマの休日』、冒頭からだいたい32分56秒あたり(笑)に出てくるので、ぜひYouTubeなどで聞いてみてください。
グレゴリー・ペック扮する新聞記者ジョーの上司、ヘネシー氏。このヘネシー氏が、寝坊して大遅刻したジョーのウソを見ぬいて、あきれかえって言う台詞だ。
「おいおいおい」って。

そう、
「ウェル、ウェル、ウェル」は「元気だ、元気だ、元気だ」ではない。
「おいおいおい」だ。
「いやはや、まったく」だ。
「たいした、たまげた」だ。
誰か止めてください。

『ハムレット』に戻ると、この一行には別バージョンがある。
(シェイクスピアってたいてい原文のテクストが複数あります。翻訳する方々は必ずクロスチェックしているはずです。)

I humbly thank you, well.

これだともう完全に普通じゃないですか。こんな感じ?

これはどうも、ごていねいにありがとう。まあ、元気だけど。

最後のwellにハテナがついているバージョンもある。

I humbly thank you.  Well?
これはどうも、ごていねいにありがとう。まあ、元気だけど?

普通。もう、めちゃくちゃ普通。

そういうシーンなのに、先回りして、彼の怒りと狂気(偽の)を表現してしまっている。翻訳が。
「元気だ、元気だ、元気だ」って、何それ。それこそ「おいおいおい」だ。

ハムレット ――待て、
 オフィーリアか? かわいい女神さま、どうか
 罪深いおれのために祈ってくれ。
オフィーリア         殿下、
 おひさしぶりでございます。いかがお過ごしでしょうか?
ハムレット これはどうも、ごていねいな挨拶、いたみいる。元気だとも。

オフィーリアがぎこちないのは、ハムレットに隠しごとをしているから。
後ろの物陰に、お父さんがいるんです。ポローニアス。
盗み聞きしている。
ひどい。泣
まあ、オフィーリアも板ばさみで、かわいそうではあるんですけどね。

ハムレットは勘がいいから、盗み聞きされていることに気づく。
気づくまで、あと約1分(諸説あり笑)。

では、最後の一行だけ、生でおとどけ!

"Well, well, well."がたんなるため息、あきれ声だという根拠が『ローマの休日』だけだと、
「現代英語だからそうなんじゃないの? 証拠不十分」
と言われてしまうかもしれない。
だけど違う。同じシェイクスピアの『マクベス』五幕二場にも"Well, well, well."はある(マクベス夫人の夢遊病を目撃してとほうにくれるお医者さんの台詞)。そして、そこは三つの版とも、
「まったく、なんと言えばいいか――」(白水社版)
「なんと、なんと、なんと。」(ちくま文庫版)
「なんと、なんと。」(角川文庫版)
と、ちゃんと訳されている。

なぜ、こうなる?

「元気だ、元気だ、元気だ」が聖火リレーのように受け継がれてしまう件。


尊敬する諸先生方の上げ足をとりたいわけではない。
ただ、くやしい。

狂気の王子が恋人に「元気だ、元気だ、元気だ」とたわむれる、そのイメージは強烈だ。
強烈だけれど、そんなものは原文にはない。
このフェイクに、私たちは過去何十年間、引きずられてきたのだろうか?
このままだとこれから何十年も引きずられてしまうよ?

英語版の映画もたくさんあるのに。来日した海外の劇団だってたくさんあったのに。
そしてどのハムレットも言っていたはずなのに、ふつうに、とまどって、
「え、何、元気だけど?」って。

私たちは、何を見て、何を聞いてきたんだろう?

翻訳以外の分野でもないだろうか。
同じミスが、受け継がれてしまうこと。
正すべき間違いが、ノーチェックで引き継がれてしまうこと。

まるで、聖火リレーみたいに。
ただし、偽りの。

受け継がなくていい、そろそろ断ち切ってもいい伝統というものも、あると思う。


注:
「罪深いおれのために祈ってくれ」は、半分ジョークです。オフィーリアが祈祷書を手にしているので、「んじゃ、おれの分も祈っておいてくれる?」という、キリスト教徒同士の気軽なあいさつです(いまでも教会では「罪深い」とかさらっと言うので……あ、私、いちおうクリスチャンです)。
もちろんハムレットはいま、人を殺すかどうかで悩んでいるので、ひそかに苦い意味もこめられています。


こちらにもう少し多めに載せてあります。
例の「このまま生きるか否か」(To be, or not to be) の直後です。


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実村 文 (theatre unit sala)
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