走馬灯が回らなかった件 part 2(眠りながら考えた(11))
体を折り曲げていた、と書いたが、そんなような気がするだけで、さだかではない。
覚えていないのだ。
救急車の中の景色もほぼ覚えていない。言葉のやりとりだけが断片的に残っている。
家族の連絡先を訊かれた。しかたなく実家の住所を告げるが、母は高齢だ。もう夜だから都心まで呼び出すのはかんべんしてあげてほしい。
そう言いたいのに、救急隊員さんがすでに電話をかけてしまっている。そういう声がする。
あんのじょう母は動転して、病院までの行きかたを尋ねたりしているらしい。
「他に連絡のつくご家族はいませんか」
大声で訊かれる。くりかえし訊かれる。聞こえてますよ。聞こえてるけど、出てこないんです、弟の電話番号が。
とっさに思いついて、母に訊いてください、と頼む。それで少し安心する。
こんなふうに意識はそこそこはっきりしているのだが、なにしろ痛い。苦しい。
苦痛のあまり声が出る。「ああっ」とか「うあっ」とでもいうような声だ。
自分で、その声の異様さに驚く。
痛くて泣いたことはもちろんいままでにもある。だがそういうのではない。泣いたり悲鳴をあげたりするのは、それでもまだ人間の領域のうちなのだと、初めて知る。
そういう声ではないのだ。自分の声が。
けだものじみた、などというのとさえ違う。犬猫だって痛くて泣くときは、誰かに向かってその痛みを訴えている。
自分の声に、それがない。
誰にも向かっていかない声なのだ。
押されると鳴るおもちゃがあるが、あれと同じだ。
あるいは、アメーバのような原始生物が鳴き声をたてたら、おそらくこんな感じなのにちがいない。
ということをリアルタイムで考えていた。本当だ。いま後付けで解説しているのではない。
(アメーバが鳴いたらこんな感じ?)
と救急車のストレッチャーの上で本当に考えていた。
(そうか、痛くて叫ぶというのは、誰かへの呼びかけだったんだ)
(いまの私のこれは違うな)
見た目はもはやただの動物になっていても、私の脳は動いていた。ひじょうにクリアな意識だった。
ただし、クリアといっても、
喩えて言うなら、
空全体が澄みわたっている快晴ではなく、
ほとんどが厚い雲におおわれていて、一か所だけ、額の真上だけに、ひじょうにきれいな青空が見えている、
そんな感じだ。
その青空のかけらが、あのときの私のすべてだった。
人は見た目が九割などと言うが、
あんがい真実は、最後の一割にある。
(つづく)