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物語詩『殻の家』

ポール・ゴーギャン『黄色いキリスト』

扉が一枚。
それだけで外とつながる、
蝸牛のような、巻貝のような殻を持つ家が、
たった一軒、取り残されたように佇んでいた。

「ひたひたいう足音が聞こえたよ。気持ち悪い」
「夜中に明かりが灯って、薄気味悪い」
「誰がいるんだろう? 気色悪いね」

誰も近づかない。
声を潜めて遠くでささやき合うだけ。
誰もが距離を置く。
遠くからちらちら視線を送るだけ。

ある日風が吹いた。激しさを増し、嵐になった。
誰もが家に籠ってやり過ごした夜、
家々の電気が消え、不安に怯えながら過ごした夜。
一軒だけ煌々と明かりの灯った殻の家の扉が、
突然大きな音を立てて開き、外れて飛んでいった。
殻にもひびが走り、剥がれ、砕けて飛んでいった。
しばらくして殻の家は崩れ落ちた。

嵐が過ぎ、晴れ上がった空の下、
殻の家の残骸の中に干からびたナメクジが見つかり、
その傍に泥にまみれた日記帳が落ちていた。

『ぼくもついに家を手に入れた。貝殻みたいでかっこいい。
小さいけど友達を招待するぐらいできそうだ。
明かりもついた。友達と晩御飯だって一緒に食べられる。
ただ問題は、その友達がいないことなんだ』

『夏には日射しが訪ねてくる。秋には落葉が訪ねてくる。
冬には雪が訪ねてくるけど、春に融けてさよならする。
こちらから訪ねて行こうかな。でもぼくは太陽に弱いんだ』

『ぼくの家のことはみんな知ってくれている。
こっちを見て何か話しているもの。
来てくれたら友達になれると思うんだけどなあ』

『風が強い。嵐になりそう。この家、大丈夫かな』

『家が揺れる。扉が壊れて開かなくなった。外に出られない。
他の家は停電なのに、ぼくの家だけ電気が消えない。
どうしよう。熱がこもってきた。暑いよ』

『暑い。暑いよ。このままでは干上がってしまう。
もう乾いてきてる。痛いよ、苦しいよ。誰か気づいて。
助けて。お願いだから、助けて』

『何かの報いなの? ぼくは罰を受けているの?』

『苦しいよ。お願い! 誰か!』

日記を読んだ者たちは顔を見合わせた。
「ナメクジのくせに殻を持つからだ」
「ナメクジを怖がってたなんて情けないね」
憐れむ者など一人もいなかった。
殻の家の残骸は片付けられ、空き地になった。
日記帳は誰の記憶にも残らなかった。
死んだのちも救われなかった。

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