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ラカン思想:ちょっとアレな用語

■はじめに

 ラカンの欲望のグラフ「第4図」において、「享楽(Jouissance)・去勢(Castration)」といった概念が出てくる。それらの概念を説明せずに欲望のグラフの解説を行うのは困難であるために、先に関連の概念について説明しておこう。

ラカンの欲望のグラフ第4図


■ラカン理論のアレな用語と赤子神話

 ラカン理論には、ちょっとアレな用語――ファルス・去勢など――がある。性衝動で色々説明するフロイト理論から発展させた理論なので、ある意味仕方が無いとは言えなくもない。だが、ラカン思想のファルス(男根)の概念も去勢の概念も、普通一般の意味の男性器とは殆ど関係のない概念である。それゆえ、もうちょっと何とかならなかったのかという気持ちになる名称の概念である。

 さて、ファルスや去勢の用語の説明にあたって、乳幼児期の体験の神話をラカンは用いる。ラカン理論の中心には「0歳児ぐらいの赤子は母親と居ると全能感と幸福感に満たされた状態にある」といった、精神構造を形成する基礎となる体験があるとしている。しかし、自己の体験を言語化できる年齢になった人間に関して言えば、その時期の記憶に関して内面の事実として保持している人間は居ない。つまり、ラカン理論は「言われてみれば、確かに赤ちゃんの頃の俺はそうだったよなぁ」と確認できる人間など誰も居ない神話を用いている。

 赤子神話の中で「ファルスや去勢」といった概念が、男性器に結びつくイメージで説明される。概念内容をみると男性器とは直接関係が無い概念なのに、その概念がファルスや去勢といった男性器を想起させる名称を付けた言い訳になるよう、赤子神話で解説しているとも受け止められる。要するに「赤子神話での説明が性的イメージのある譬え話なので、概念の名称も性的イメージのある名称にしました」と言わんばかりである。

 ラカン理論(また源流のフロイト理論も同様)だが、概念内容からすると性的であるのか微妙な対象に、去勢などの男性器を想起させる名称を用いている。

 男女で差異がある性器に関わるような名称を用いて精神の在り方を説明する為なのか、精神の在り方自体に関しても男女が本質的に別の存在だとの謎理論が出てくる。しかし、ラカン理論におけるファルスや去勢の概念は、男性器との直接的関係を考える必要のない概念である。それゆえ、男女を別に扱う必要は特段ない。それにもかかわらず、男女が本質的に別物であるかのようにラカン理論で扱っている。

 このことに関して、ファルスだの去勢だのという名称が男性器と関係するものであったから、名称に理論が引っ張られてしまったのではないかと私は疑っている。そんなわけで、ラカン理論に登場する概念が直接関係ないのに性的イメージを喚起する名称になっていることは、益が少ないのに害が多いと私は感じる。

 それはさておき、赤子神話の性質について少し断っておこう。

 ラカン理論において、母と共に居る赤子は全能で幸福な状態である「S」にあり、また「S」で赤子が享受しているものは「享楽(Jouissance)」であると説明される。だが、実際の母親と共にいる0歳児の状態が「S」であるのかどうかは誰にも分からない。赤子の状態が「S」であるとのラカンの言葉を信じたければ信じてもいいが、そんなものは「神のみぞ知る」という類の言説だ。もちろん、赤子神話で「Sや享楽」を過不足なく理解できるならそれはそれでいいだろう。

 しかし、ラカン理論でいう「Sや享楽」の概念内容は、「そこに到達できない夢想の状態である」という意味では、母と共に居る赤子は全能で幸福な状態に限定されたものではない。当然それらも含んでいると考えてもよいのだが、もう少し広い意味をもった概念である。また「欠如しているがゆえの$」も同時に意味が広い概念である。それゆえ、母と共に居る赤子の状態の話で、Sや$、あるいはファルス・去勢といった概念の説明をするのは、私は適切ではないと思っている。

 そこで、S・$・享楽・ファルス・去勢の概念を、ラカンが用いた誤解を振りまく赤子神話による説明ではなく、最近の「なろう系俺TUEEE!!小説」を用いて、まず説明しよう。私個人の見解だが、なろう系俺TUEEE!!小説に関連する事情は、ラカン理論を説明するにあたって非常に相性がいいように思われる。


■なろう系俺TUEEE!!小説でみるラカン理論の各概念

 「なろう系俺TUEEE!!小説」は、「小説家になろう」という素人小説投稿サイトに投稿された小説の一大ジャンルになっている小説群を指している。多少のバリエーションはあるのだが、大まかな構造はある種のテンプレートがある。男性向け小説のテンプレートと女性向け小説のテンプレートにはやや差異があるが、大まかな構造はどちらも同じといっていい(註1)。

 その構造とは以下だ。

  1. 現世界を生きていた人間が死亡等によって異世界に転生・転移する

  2. 転生・転移にあたってチートと呼ばれる他と隔絶した能力を授けられる

  3. チートによって異世界で全能とも言える状態になり幸福な生活を送る

 このなろう系小説における「現世界-異世界」の違いが、ラカン理論の「$-S関係・去勢・享楽と"死への欲求(タナトス)"の関係」をよく示す。また、なろう系小説のチートがラカン理論における「ファルス」に当たることも奇妙とすら言えるほどの照応関係と言えるだろう。

 さて、なろう系小説における異世界は「主人公にとって理想が思うがままに実現する世界」である。すなわち、異世界はラカン理論でいう「S」である。一方、現世界は"異世界ではない"のでラカン理論でいう「$」である。

 また、ラカン理論でいう「去勢」とは「自分の理想が思うがままに実現する状態から自分の思う通りに全てが動くわけではない現実的な状態になること」を指している。言ってみれば、何でも都合よく思うままに欲求が叶う状態から、ルールに則った欲求は叶うがルールから外れる欲求は叶わない状態になることである。つまり、思うがままの異世界からままならない現世界に追放されることである。したがって、なろう系小説における主人公の異世界転生・転移は、言ってみれば「ラカン理論の去勢の逆」になっている訳である。

 さて、Sにおける幸福をラカン理論では「享楽」と呼ぶ。そして享楽追求には破滅の危険すら厭わない性質がある。「あなた、それをすると死んでしまうよ。Sを目指す過程で死んでしまうなら生きて享楽を享受できないんだよ?」という疑問が湧く行為であっても行われることがある。すなわち、(生きているときには)享楽が獲得されることが無いにも関わらず、享楽を追求する過程において苦痛や破滅があってもそれを甘受するという、非合理ともいえる関係が成立していることがある。それが「享楽と"死への欲求(タナトス)"の関係」と呼ばれる関係である。

 なろう系小説においても、現世界から異世界に転生・転移するとき、主人公は一旦死ぬことが多い。魔法陣を踏んで転移というバージョンもあるが、その場合でも現世界からオサラバして異世界に行く。つまり、なろう系小説において、状況Sが実現する過程、すなわち現世界から異世界にいく過程は「(現世界の)死の過程」なのだ。異世界転生・転移はそういう「死の過程」なのだが、主人公が平然と、あるいは嬉々として異世界転生・転移を受け入れている場合が少なくない。そんな主人公たちの現世界から異世界に行きたいという気持ちは、"死への欲求(タナトス)"と言えるものである。

 ただし、異世界転生・転移を受け入れていない物語もあるのだが、その場合は異世界がままならず、現世界のほうが望ましい設定になっている物語である場合である。つまり、現世界が「S」で異世界が「$」となっている物語である場合は、主人公は異世界転生・転移を受け入れていない。

 また、ラカン理論でいうファルスは、なろう系小説におけるチートである。チートと呼ばれる周囲と隔絶した能力、女性向けのなろう系小説だと上位貴族の身分と財力およびそれを自由に使用することを許す家族等が、ラカン理論でいうファルスに当たる。チートがあるからこそ主人公は、ほぼ全能といってよい程、思うがままに異世界で自分のやりたい事をやっている。そして、富・異性・社会的地位・周囲からの称賛や感謝・良好な家族関係・快適な生活等をチートによって獲得する。ファルスであるチートの存在が前提となって、全能で幸福な生活を送る状況Sになっている。このチートが果たしている役割が、ラカン理論におけるファルスの(全能で幸福な)状況Sを齎すという働きと同じである。

 ただし、厳密な類比関係で言うならば、ファルスは「(全能性をもった)異世界転生・転移を可能にしたチート」というべきである。もしも、なろう系小説でラカン理論を厳密に考えるならば、その辺りに留意しなければならないと言えるだろう。だが、なろう系小説を用いたラカン理論の解説の目的は、S・$・享楽・ファルス・去勢の概念が男性器や性的関係とは直接的に繋がっていないことを把握することであるから、そこは少し妥協しておこう。

 以上が「なろう系俺TUEEE!!小説」の構造でみる、ラカン理論の「$-S関係」「去勢」「享楽と"死への欲求(タナトス)"の関係」「ファルス」である。とはいえ、なろう系小説には親しみのない人も多いだろう。そこで、なろう系小説とは苦楽が逆の異世界転移物語ともいえる、聖書の創世記に書かれたエデン追放でラカン理論を見ていこう。


■創世記「エデン追放」でみるラカン理論

 創世記に書かれたアダムとイブの物語は、何の悩みもなく幸福に暮らしていたエデンの園から善悪の知識の木の実を食べたことでアダムとイブが追放される物語だ。

 何の悩みもないエデンに居ることが、ラカン理論の「S」に当たる。そして、善悪の知識の木の実を食べることは、アダムとイブに象徴的秩序(≒ルール)が導入されたことを示す。だが、象徴的秩序が導入されたことで二人はエデンを追放される。このエデンからの追放は、ラカン理論では「去勢」に当たる。そして、エデンの外の世界は当然ながらエデンではないのだからラカン理論における「$」になる。

 さらに、二人のエデン追放後、神はエデンの東にケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置くことになる。二人がもしエデンに帰ってこようとするとケルビムによって打ち殺されることになる。つまり、$からSを目指すことには"死の危険"があることが示され、それを目指す欲求が「死への欲求(タナトス)」であることを表している。

 とはいえ、エデン追放の物語だけだとラカン理論の「ファルス」に当たるものが見当たらないことになる。そこで、新約聖書を含めたキリスト教全体の考え方でみてみよう。

 そのとき、「S」をエデンから天国に置き換えたならば、ファルスにあたるものが「イエス・キリストへの信仰」になることが分かるだろう。なぜなら、ラカン理論におけるファルスとは、そこに至りたいと願ってやまない場所Sに至る手段となるものを指す概念だからだ。

 また、キリスト教徒(に限った話でもない)が、天国Sにおける享楽を追求する過程で、現世$における死や破滅に向かおうとも天国Sにおける享楽を目指す欲求は"死への欲求(タナトス)"であると言える。

 現代社会においてはキリスト教徒の活動で考えるよりも、イスラム教徒がアラーの御許に向かう事を目指してジハードを唱えて自爆テロを起こす行動で考えた方が理解し易いかもしれない。イスラム教徒の自爆テロは享楽を目指す"死への欲求(タナトス)"によって突き動かされた典型的な行動と言えるだろう。

 以上から分かるように、ファルスや去勢などの奇妙な表現でラカンが述べていることは、宗教や文学で幾度もモチーフになったものなのだ。


■ラカンが持ち出す赤子神話から見るS・$・ファルス・去勢

 これまでの説明によって、ラカンが持ち出す赤子神話から「S・$・ファルス・去勢」の概念の説明を以降で行うとしても、各概念を変に性的なものとして限定的に捉える読者はあまり居ないと期待したい。繰り返し注意をするが、ラカン理論におけるファルスや去勢という概念は男性器と関係する名称の概念であるが、概念内容において男性器は関係が無い。また、ラカンが持ち出す赤子神話の説明でも男性器と関係するかのような概念の説明が為されるのだが、実際には各概念は男性器と全く関係が無い。

 では、これからラカンが持ち出す赤子神話から各概念の説明をしよう。

 赤子は母親と一緒にいるとき、お腹がすけば母乳が与えられ、排泄すればおしめを替えてもらえ、視界の変えたければ抱き上げてもらえる。つまり、思うがままに快状態が与えられて不快状態になれば直ちに改善される状況に赤子は居る。このような母親と共にいる赤子の状況を、ラカン理論においては「S」と表現する。

 しかし、母親は常に赤子と居る訳ではない。当然ながら母親にも様々な事情が生じて赤子の傍から離れることはある。このときの赤子の状況は、先程の直ちに快状態が与えられ不快状態が取り除かれる状況とは異なってくる。つまり、「S」が失われた状況にあるわけだ。この状況をラカン理論では「$」と表現する。

 この「$」下において、赤子は二人の人物が存在していることを認識していると赤子神話では想定する。その二人とは母親と父親である。赤子の中では母親は自分と居るべき人物である。しかし、母親は「父親の男根=ファルス」に誘引されて自分(=赤子)から離れてしまっていると赤子は認識する。このように、赤子神話では考えるのだ。

 ちょっと割り込んで私の感想を述べるが、この辺りの赤子神話によるラカン理論の説明は気色悪くて仕方が無い。「言うに事を欠いて何て説明をするんだ」という気持ちが抑えられない。しかも、結局はラカンの"ファルス"の概念は性的要素が無いときたもんだ。本気で「もっと別の形で説明しろよ」としか思えない。

 閑話休題、赤子神話からのラカン理論の説明に戻ろう。

 赤子は不満足な状況$にあるとき「もしも自分にもファルスがあれば母親を繋ぎとめて満足した状況Sがいまも継続できているのに」と考える。これが、「赤子の近親相姦欲求(エディップス・コンプレックス)」である。ラカン理論というよりもフロイトのエディップス・コンプレックス期の話なのだが、赤子神話での考え方においては、フロイトもラカンも大して変わらない。

 しかし、当然ながら母親は赤子に従属した存在ではなく独立した他者であるため、状況Sの恒常性は成立しえないことを赤子は知る。つまり、母親を自分に常に繋ぎとめ、Sの継続を恒常的にするファルスが自分には無いことを知る。いや、赤子のファルスが父親により去勢されて母親と継続的に繋がることを不可能にされたと認識するのだ。父親によって行われた去勢によって恒常的にSの状況を赤子が実現することが不可能となり、不満足な状況$こそが自分が置かれる通常の状況であることを赤子が知ることになるとされる。

 だが、赤子のファルスが去勢された後も、赤子の状況Sへの郷愁は止み難い。その状況Sを求める欲求はやがて形を変え、「自らのファルスを(再度)持ちたい」と(男児は)願うようになる。

 以上のような赤子神話でラカンは「S・$・ファルス・去勢」といった概念を説明する。この説明からは各概念が性的要素と密接に関係する概念であるような印象を受ける。しかし、この赤子神話からの説明は寓話的説明に過ぎない。赤子神話の説明をフィクションのストーリーとして理解し、そのストーリーに類比的に当てはめて「S・$・ファルス・去勢」といった概念を把握するのだ。そして、対応させることのできる構造を持った、特に性的なものでもない対象に対して、その構造の各部に「S・$・ファルス・去勢」の概念をそれぞれ対応させ、「S・$・ファルス・去勢」の概念によって考察したい対象を理解するのだ。


■実際の我々の生活でみるSとファルスの違い

 ラカン理論のSとファルスについて少し違いが分かり難いかもしれない。そこで、実際の我々の生活においてはSやファルスが何に対応するのかを示して、その相違を明らかにすることにしよう。

 我々の実際の生活においては、実際的な事柄に関する楽観的予期だけでなく、客観的な実現可能性を抜きにした夢想がある。

 歴史的な偉業を成し遂げる状況、世界的なアーティストやアスリートのような憧れの存在となる状況、あるいはもっと俗っぽく、順風満帆の人生を送る状況、周囲からチヤホヤされる状況、異性からモテモテである状況といったミクロ的な夢想がある。また、世界平和が実現する状況、誰もが貧困に苦しむことのない世界になる状況、動植物の環境が豊な世界になる状況、自国が世界で押しも押されぬ強国になる状況、自分の信仰する宗教が世界的に普及する状況、ある政治思想が世界で実現する状況といったマクロ的な夢想がある。

 上に挙げた類の夢想について、「あぁ、そんな状況が自分や自分達がいるべきエデンなのだ」と感じるものが、実際の我々の生活でみる「S」である。そして、当然ながら夢想が実現していない現状が、実際の我々の生活でみる「$」である。そして、「○○があれば、自分の夢想が実現するのに」と思う「○○」が、実際の我々の生活でみる「ファルス」である。

 実際の我々の生活でみる「S」であっても、あまり高尚なものだとイマイチ実感がわかないので、俗っぽいミクロな夢想で具体的に考えてみよう。

 さて、順風満帆の人生Sを送りたいと夢想している人が居るとしよう。当然この人の現状はそんな人生ではない$である。この人が「私がいま順風満帆でないのは大金を稼いでいないからだ。きっと大金を稼げば順風満帆の人生が送れるに違いない」と考えたとき、この人のファルスは「大金」である。

 また別の例を考えよう。

 周囲からチヤホヤされる状況Sになりたいと夢想している人がいるとしよう。当然この人の現状はチヤホヤされていない$である。この人が「私がいま周囲からチヤホヤされていないのは私の顔が美しくないからだ。だから(整形手術をして)美貌を獲得すれば、きっと周囲からチヤホヤしてもらえるに違いない」と考えたとき、この人のファルスは「美貌」である。

 更に別の例を考えよう。

 異性からモテモテになる状況Sになりたいと夢想している人がいたとしよう。当然この人の現状はモテモテではない$である。この人が「私がいまモテモテでないのは哲学的な深遠な思想を持っていないからだ。もしも私が哲学的な深遠な思想を持っていればきっとモテモテになるに違いない」と考えたとき、この人のファルスは「哲学的な深遠な思想」である。

 以上の日常的で具体的な例からも分かるように、ラカン理論における「ファルス」とはそれを自分が持っていると「S」の状態が実現できると考えているものであって、「S」そのものとは異なるものである。

 また、日常的な具体例で見たことで、ラカン理論における「ファルス」が性的な概念でないことも改めて確認できたと思われる。


■おわりに

 ラカンの欲望のグラフ第4図に登場する「S・$・享楽・去勢」の概念がなんであるかは、以上の説明で明確になったと思う。また、それらと密接な関係にある「ファルス」概念についても、どういうものか理解してもらえたのではないだろうか。

 また、それらの概念の名称や、あるいはラカンのそれらの概念を説明するときに用いた譬え話からくる性的なイメージは、これまで論じてきたことから解消できたのではないかと思う。

 ただし、ラカン理論の概念の名称や解説で用いる譬え話の題材のチョイスの趣味の悪さは筆舌に尽くし難いと私は感じる。少なくとも、ラカンを最初に読んだとき、私はこの性的イメージに非常に引きずられた。また、ラカンは似非数学的表現や言語学のテクニカルタームの不適切利用をしているため、それらに関しても読解の障害となった。

 「ロジャース派心理学の『重要な他者』の働きを理解するのにラカン理論が役に立つ」と言ってしまったためにラカン理論を解説しているが、正直な気持ちで言えば後悔している。ラカン理論は確かに役には立つのだが、ミスリードを誘う表現や同じ言葉を複数の枠組みで別の意味で用いるクソったれな部分が多すぎて、ラカン理論の解説そのものに苦痛を感じて仕方が無い。


註1 男性向け-なろう系小説と女性向け-なろう系小説を見ていると、ラカン理論における男性と女性の違いは、妥当なのではないかとの印象を抱く。すなわち、「男性は自らがファルスを獲得することを欲望する」「女性はファルスを享受することを欲望する」の差異が、そのまま、なろう系小説の男性向け-女性向けの差異となって表れているように思えるからだ。とはいえ、男女には本質的差異があるとするラカン理論も、なろう系小説の男性向け-女性向けの差異もまた、ラカンが理論を構築した時代から続く「男女の直面する社会的に構築されたジェンダー」によって生み出されたものであるとジェンダー構築主義の立場から私は考えている。


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