ジェンダー学を学んだ学生さんの卒論からみるフェミニズム・バイアスのある認識枠組み
noteのおすすめ記事のアルゴリズムはよく分からないのだが、ジェンダー学を学んだ学生さんの卒論がトップページに来た。そこで、今回はこの学生さんの卒論の中に見られるフェミニズム・バイアスをテーマに取り上げてみたい。その取り上げるnote記事とは以下である。
もちろん、学部生の卒論だから内容のレベル云々を批判しても大人げない話である。だが、まがいなりにも"ジェンダー学"を専攻し、ゼミの教官から論文指導を受けているハズの人間の論文において、セクシズムに基づく認識がチラホラ見受けられることは、(日本の)ジェンダー学を取り巻く現状に何らかの欠陥があることを示唆している。ジェンダー学自体が学問として致命的な欠陥を内包していることを意味しているのか、ジェンダー学に関する教育システム上の欠陥が意図せざる効果としてセクシズムに囚われた——ジェンダー学の専門教育を受けたにも関わらず"名誉男性"という差別ワードを安易に用いる――学生を育成してしまうのか、どちらであるのかは判然としない(註)。しかし、そのどちらであろうとも、本稿で取り上げる学生さんの卒論にアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)が存在していることには変わりは無い。
この学生さんはおそらく自信満々で「中立的見地から男女不平等な日本社会に自分は物申す!」という意識でいるだろう。しかし、この学生さんはフェミニズムが喧伝する物語の枠組みに沿って事態を認識している。つまり、「男性有利で女性不利な社会構造」という事前の認識枠組みのもとで、そのメガネをかけた上で、事態を眺めている。したがって、論文で取り上げる具体的事例をどのような角度から切り取ってみても最初から結論は決まり切っているのだ。「男性有利で女性不利な社会構造」という図式に当てはめて具体的事例における事態を解釈したとき、「男性有利で女性不利な社会構造」に反する解釈が出てきたら、それこそビックリである。
まさしく「社会的に構築された性別=ジェンダー」を自分で再生産しておきながらジェンダー・バイアスを問題視するのだから、滑稽なこと極まりない。
もちろん、我々は個人的体験による負荷が掛かった状態でしか思考することはできない。また事実の観察には理論負荷性も存在する。その負荷ゆえに自己の思考が歪んでいる可能性を否定することはできない。しかし、自己の個人的体験による負荷で思考が歪んでいる可能性や理論負荷性に自覚的態度でいるのか、そんな可能性に思い至らずに自己の思考は無謬の思考であるとの前提を置いた傲慢な態度でいるのかで、第三者的視点からみた自説の妥当性は異なってくる。無論、態度の違いが直接的に妥当性の違いとなって現れるのではなく、「自己の思考は間違い得る」という反省的態度によって自説と対立仮説との比較検討が為される結果、妥当性が高まるのである。すなわち、反省的態度から、自説を主張する際に有り得る可能性として対立仮説を検討し、それを棄却した上で「自説の方がより尤もらしい」とする方法論上の手続きを取るからこそ妥当性が高まるのである。しかし、そのような手続きを経ることのない言説は、到底、客観的な言説には成り得ない。
フェミニズム思想に毒されたジェンダー論に対して、学問としての資格に疑いが掛けられているのは、まさしく可謬主義的視点を欠いた独善的態度に起因する。男性有利で女性不利な社会構造以外の可能性を示されたとき、フェミニストは「女性差別を覆い隠そうとし、女性の声を封殺する家父長制の圧力だ!」と喚きたて、批判を受け付けない。おそらくそれはフェミニスト自身の内面においても生じており、自己反省すら家父長制イデオロギーによる思考様式として忌避するのだろう。そして、それがフェミニストをカルト的狂信者にして仕立て上げるメカニズムなのだろう。
したがって、「ジェンダー学」なるものがフェミニズム思想を必須とするのであれば、ジェンダー学自体に内包された似非科学的性質によってジェンダー学そのものが学問的適格性を欠く。一方、ジェンダー学自体に関してはフェミニズム思想を必須とはしないが、ジェンダー学を学ぶにあたってフェミニズム思想から外れず思考するように教育しているのであれば、ジェンダー学の教育システムの欠陥であると言えるだろう。
■学生さんの卒論は方法論の観点から失格である
さて、件の学生さんの卒論の要旨を記事から引用しよう。
上記の要旨と序章の一部、および第四章の一部から学生さんの「卒論の構造」と「何を卒論において主張しようとしているのか」は(実際にそれが卒論において妥当な形で出来ているかどうかはともかく)容易に見て取れる。まず、その大枠を以下に示そう。
さて、実に奇妙なことに気づけただろうか。卒論の要旨においても、公開されている範囲の本文を実際に読んでも、日本における発達障害男性の実態には殆ど触れられていない。発達障害者女性との比較対象である発達障害者男性についてはまるで何も分からないに等しい。これでは到底「発達障害者に関して男性より女性の方がより困難である」などという結果は導出できない。すなわち、「ホラ、こんなにも発達障害者女性には困難がある!」と声高に発達障害女性に関する事例だけを並べ立てても、比較すべき発達障害男性が直面している事態が示されないならば、男女の発達障害者の困難性の大小を評価することなどできない。
もしも学生さんの卒論が、単に「発達障害女性が直面している困難」をテーマとする実態解明を目的とした論文で、考察においても「発達障害者女性の困難性は○○という女性ジェンダー規範から齎されているので、そのような女性ジェンダー規範は無くしていかなければならない」と、発達障害者男性や日本社会のジェンダー平等云々の話とは無関係な主張を展開するのであれば、発達障害男性が直面する困難の実態に触れる必要は無い。
しかし、「発達障害者に関して、男性よりも女性の方がより困難である」との結果を導出したいのであれば、発達障害者男性の実態も同様に調査し、何らかの評価基準によって評価し、更に男女の発達障害者の相異なる困難性の評価基準そのものの妥当性も示さなければならない。
この学生さんの卒論の「リザルト(結果)」において導出したい内容から判断して、為さなければならない学術的手続きとは上記のようなものだ。
ただ、その必要性について理解できない人もいるかもしれない。また、ジェンダー論の議論において、(例外的なジェンダーの人以外は)男陣営と女陣営に分かれてしまう。そして「性別が関係する議論」において自らと同じ性別の陣営への批判に対しては理屈抜きで反発し、事実・論理・妥当性・・・等の客観的議論を構成する要素を全て投げ捨てて、話の通じないモンスターに変貌する人間が出てくる。
そこで、メソッド(=方法論)についての議論を、明後日の方向に向けさせる要因となる性別という題材抜きでするために、スポーツ選手の偉大さの比較の譬え話で説明していくことにしよう。
さて、議論において「大谷翔平よりもリオネル・メッシの方が偉大なスポーツ選手だ!」と論証したいとき、メッシ選手の活躍だけをアレコレいくら並べ立てても、メッシ選手がスポーツ選手として大谷選手を上回ることを示すことはできない。
メッシの偉業である「8度のバロンドール、6度のUEFAチャンピオンズリーグ得点王・(欧州得点王である)ゴールデンシュー、10度のラ・リーガ、7度のコパ・デル・レイ、4度のUEFAチャンピオンズリーグを含むバルセロナ歴代最多35回のタイトル獲得に貢献し、2022 FIFAワールドカップではアルゼンチンを36年ぶりの優勝に導き、史上初となる2度目の大会MVPであるゴールデンボールを受賞した」と、大谷選手の偉業の「大谷選手は2022年にベーブルース以来104年ぶりの投手として二桁勝利二桁本塁打を達成し、2023年にはWBC優勝にエース主砲として寄与してMVPを取り、しかもMLBでも本塁打王と2度目のMVPになった」も同時に提示して、二人の偉業を評価する判断基準を示して比較検討し、その結果によってメッシ選手の方が偉大であることを示す必要がある。
その際に、大谷選手・メッシ選手が属するプロ野球界やプロサッカー界の状態に言及し、両スポーツ界の比較もまた為されることは当然あり得る。裾野の広いスポーツのトップの方が、裾野の狭いスポーツのトップよりも偉大である蓋然性が高いからだ。
だた、そうであったとしても、比較対象の選手の個人的業績に触れもせずに結論を出すのは、メソッド(方法論)として、すなわち学術的手続きとして誤りである。すなわち、メッシ選手については個人的業績とサッカー界の事情を事細かに取り上げるが、大谷選手については個人的業績について触れず「野球はアメリカと東アジアの国で盛んなだけで、全世界的スポーツであるサッカーとは比較にならない」と野球界の事情の説明のみ簡単に触れて「そんな(大したことない)野球界のスターの大谷選手の個人的業績なんてイチイチ見るに値しない」と見做して「リオネル・メッシの方が大谷翔平よりも偉大なスポーツ選手だ」と結論付けることは、非常にオカシイ事なのだ。
つまり、「大谷翔平よりもリオネル・メッシの方が偉大なスポーツ選手だ!」との結論を出すには、相異なる二人の記録を同時に提示した上で比較し、それぞれをどのような評価基準に基づいて評価したかを明確にし、更にはその評価基準自体もどのように妥当であるのかを示さなければならないのだ。
ここまでの説明で見て取れるように「リオネル・メッシと大谷翔平の偉大さの比較」は非常に難しい。そして、そもそも論として異なるスポーツの偉大な二人の選手を比較する必要があるのかという問題がある。もちろん、必要性があるなら困難であっても「比較」を行う意義がある。しかし、大した意義がないのであれば、最初から「二つを比べたらどっちがよりスゴイ?」などという問いの立て方自体を破棄すべきである。すなわち、安易に二項対立の図式に当てはめて物事を認識しようとしてはいけないのだ。
学生さんの卒論における方法論上の問題のイメージが、上述の譬え話で把握できたのではないかと思う。さらに明確に問題を理解するために、当該卒論で行われた男女の発達障害者の比較と譬え話の二人のスポーツ選手の比較の対比を行おう。
譬え話の比較において、サッカー界・野球界といった業界の事情の比較というものは、学生さんの卒論の比較においては男性ジェンダーと女性ジェンダーの比較にあたる。また、譬え話の比較においては明示的に登場させなかったが、大谷選手やメッシ選手のようなスターではない"普通の野球選手・サッカー選手"に相当するのが、当該卒論の健常者の男女である。そして、当然ながら譬え話でのメッシ選手と大谷選手は、当該卒論における発達障害者の男女であり、譬え話での二人の個人的業績は、当該卒論においては発達障害者の男女それぞれが直面する具体的な困難である。
サッカー界に比べて野球界が大したことなくとも、普通の野球選手がどうであっても、大谷翔平自身の業績を検討することなしに、リオネル・メッシ側・サッカー界側の事情だけを事細かに考察することだけで、「大谷翔平よりもリオネル・メッシの方が偉大なのだ」と結論付ける議論の構造は、居酒屋での雑談でならともかく、もしもそれが学術的な論文と見做される議論であった場合には、方法論すなわち学術的手続きの面で失格の議論の構造である。
同様に、女性ジェンダーの事情と比べて男性ジェンダーの事情が仮に大したことなくとも、健常者の男性の状態がどうであっても、実際の発達障害者男性が直面する具体的困難を検討することなしに、発達障害者女性側・女性ジェンダー側の事情だけを事細かに考察することだけで、「発達障害者男性よりも発達障害者女性の方が困難なのだ」と結論付ける議論の構造は、卒論のような学術的な論文と見做される議論においては方法論すなわち学術的手続きの面で失格の議論の構造なのだ。
したがって、この学生さんの指導教官は卒論の構想段階において「安易な二項対立図式を論文に持ち込むな!」と指導すべきだったのだ。「男はズルイ、私達女性はこんなにツライのに、ぴえん。。。」というものが執筆の個人的動機だろうがなんだろうが、学術的な論文に仕上げるならキチンとその思いを昇華させるべきである。更に言えば、男女の発達障害者の比較なんぞ学部学生には手に余るのだから、学生さんの力量に見合う形での「問いの立て方」を指導すべきである。
もっと言えば、「こんな女性ジェンダー規範があるからツライ、あんなジェンダー規範があるからツライ、またまた、そんなジェンダー規範があるからツライ、なんて女性は辛いの、ぴえん」といった総花的議論、すなわち対象となる具体的なジェンダー規範を絞らない論文構成なんぞで、学術的価値観から見て有用なインプリケーションが出ようはずもない。そんなものは、X(旧Twitter)の愚痴ポストの羅列となんら変わらない。
卒論としてあるべき形を学生さんの卒論にもっとも近い形で言うならば、「○○という女性ジェンダー規範は、如何なる困難を発達障害者女性の生において齎す問題として立ち現れているか」という形の問の立て方を指導すべきである。当該卒論に登場する例で示せば、「女の子はしっかりしている」というジェンダーバイアス、規範の形としては「女の子はしっかりしていないといけない」という女性ジェンダー規範が、発達障害者女性の生における具体的な個々のシーンにおいてどのように立ち現れてくるかを明らかにすること(リザルト)を目指すべきである。その上で、発達障害者女性に困難を齎している「女の子はしっかりしている」というジェンダーバイアスや「女の子はしっかりしていないといけない」というジェンダー規範を、社会から無くしていくべきではないかとの考察(ディスカッション)を述べるべきなのだ。
あるいは、事例にもっと真剣に向き合って「事例における発達障害者女性の周囲の具体的言動・具体的行為および発達障害者女性自身の具体的言動・具体的行為から、発達障害者女性を呪縛する○○という規範が明らかになった(リザルト)。そして、それが発達障害者女性が陥る困難な状況を齎す一因と考えられる(ディスカッション)」という形の結論が出るような論文構成を、この学生さんの卒論の構成とすべく指導教官はゼミにおいて教えるべきであった。
まったくもって、男女の発達障害者の困難さをテーマにした学術的な論文の一種、しかも指導教官から指導を受けつつ通常2年かけて完成させる卒論において、方法論すなわち学術的手続きの面で致命的な欠陥があるのは、ジェンダー学そのものかジェンダー学の教育システムに致命的な欠陥が存在していることを窺わせる。
■学生さんの卒論から見る、フェミニズムに毒された認識枠組み
以下は学生さんの卒論の結論部に当たる第四章の冒頭の文章だ。
これは実に奇妙な主張なのだ。なぜなら、学生さんの卒論において、発達障害者男性の実態がどうであるか全く明らかになっていない。したがって、発達障害者男性と同じ規範を適用されたときに発達障害者女性がどうなるかの予想を立てる材料すら当該卒論には存在しないのだ。指差す先が素晴らしいかどうかも何も分からないのに「きっと指差す先は素晴らしいハズ!」と盲信している。
「私達、発達障害者女性はこんなツライ状態にある。けど、発達障害者男性はちょっとのハンデしか感じないユートピアに生きているんだわ」という、社会は男性有利女性不利に決まっているのだと断定するフェミニズムが描き出す物語から、幻想の日本社会を眺めている。もちろん、「隣の芝生は青く見える」というのは、人間の心理上仕方のないことではある。しかし、学術的論文の一種である卒論において、客観性も糞も無い"隣の芝生は青く見える思考"そのままでの主張を垂れ流している辺り、「フェミニズムの枠組みに適う認識(=男性有利女性不利という認識)は正しいのだ」というフェミニズムの毒が学生さんに回り切っていることを示している。
そしてフェミニズムに毒された認識は学生さんの卒論の序章の端々にも表れている。
この抜粋した部分について性別を女性に限らず、中立的な形に変更してみよう。
さて、性別をニュートラルにした「1'.・2'・3'.」が妥当でなくなるだろうか。
いやいやまさか。
男性でも女性でも障害や疾患があれば社会的立場は大きく不利であることは明らかである。また、「生きていても厄介者であると見なされ、 生まれてきても受け入れられない」と感じる体験の有無など障害者であれば男女で差異があるわけでもなかろう。更には、障害を持っているときは男性でも女性でも自立が困難を極める。
現実の日本社会における障害者を巡る状況は上記であるにも関わらず、「1'.・2'・3'.」との認識から男性を排除するのだ。
では、「1'.・2'・3'.」との認識から男性を排除する根拠が示されているかといえば、学生さんの卒論において
なーんにも存在しないのだ。
つまり、学生さんは卒論において無根拠に「発達障害から生じる男性の困難」を取るに足らないものと評価するのだ。
そして、認識枠組みにおいて「男性有利女性不利」という図式がビルトインされているからこそ、なんら疑問も持たず、無根拠に「1'.・2'・3'.」から男性を排除しているのである。徹頭徹尾、フェミニズムに毒された認識枠組みから日本社会を眺めているからこそ、
などと無根拠に信じ込めるのだ。
しかし、現代日本社会の仕組みが、健常者の男女にとってみれば仮に男性有利女性不利であったとしても、発達障害者男性や発達障害者女性にとっても同様であるとは限らない。社会の健常者に対する相と障害者に対する相は異なり得る。したがって、社会の健常者に対する相と障害者に対する相が同じかどうかは注意深く観察しないと判明しないことだ。
だが、発達障害者男性は発達障害者女性と異なってユートピアに生きていると、学生さんは無根拠に信じ込む。つまり、フェミニズムに毒された認識枠組みのもとでは、「健常者と発達障害者では社会が異なる相をみせるかどうか検討しなければならないという事態」すら認識できなくなってしまうのだ。
註
学生さんが"名誉男性"という差別ワードを安易に用いている様子が窺える記事は、(学生さんの中では)卒論の補論のような位置づけにある以下のnote記事である。