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フロイトとエリクソンの発達心理学8:神と超自我と道徳
本稿は、表題にある通り「フロイトとエリクソンの発達心理学」のシリーズ記事である。
さて、フロイトの発達心理学における「エディップス期ないしは男根期(3-6歳期)」に関する理論を理解するのは中々難しい。パッと聞いただけでは「何でそうなる?」との感想を持つのではないだろうか。更に言えば、この時期に形成される超自我に関しても自我との違いが分かりづらい。そして、エディップス期・潜伏期・性器期で超自我はそれぞれ変容するので猶更分かりづらい。
ただ、前回・前々回記事で「肛門期-エディップス期」における「自我-超自我」概念の違いについては詳細に見てきたので、自我と超自我の違いに関してはそれなりに理解されたのではないかと思う。しかし、超自我に関しては発達段階によってかなり性質が変化する。それゆえ、「エディップス期の超自我」に対してよく分からないとの印象を持つ人も多いのではないかと思う。
エディップス期から潜伏期に移行すると超自我が理屈付けれていくという変化が現れる。このことがまたイメージしずらく分かり難い。そして、「理屈付けられていない超自我って何じゃい?」という疑問も出てくるだろう。そこで本稿では「理屈つけられていないエディップス期の超自我」と関わりのある、"素朴で力ある神"とその神によって齎される道徳について考察していきたい。
ここで少し注意をしておこう。
本稿では、エディップス期における保護者に関する「異性の親を巡る同性の親とのライバル関係」ないしは「エディップス・コンプレックス(あるいはエレクトラ・コンプレックス)」は扱わない。当然、それらが関係するファルス(男根)についても扱わない。もちろん、エディップス期においてはそれらは重要ではあるのだが、「エディップス期の超自我」を考察するにあたっては、一先ずライバル関係は忘れてもらった方がよい。それというのも、エディップス期の超自我自体の性質と「異性の親を巡る同性の親とのライバル関係」や「ファルス(男根)」とは直接関係ないからである。
■道徳と宗教
さて、欧米諸国に赴いた際のアドバイスに、現地の人から信じる宗教を聞かれたときに無宗教と回答すると道徳心が無い人間と見做されてしまうので、特に仏教に帰依してなくとも「ブッディスト(仏教徒)です」と回答した方がいいといったものがある。
まぁ、この手の話は旧聞に属する話ではないかとは思う。大半の日本人にとってみると「なんでそうなる?」と感じるのだが、通常一般的な欧米人の常識では宗教心と道徳心は不可分である。もちろん、最近では欧米人でも神を信じていない人間は増加している。しかし、宗教心と道徳心の関係性に関する彼らの考え方はあまり変わっていないように見える。
では、なぜ欧米人はそのように考えているのだろうか。そこには、超自我形成についての欧米人に特有の事情があるように思われる。欧米人の主流の宗教であるキリスト教に関して、通常一般的な人々が信じているところの(素朴な)キリスト教の神の性質が、余りにもエディップス期の超自我形成に関係してくるのである。
もちろん、神としてはキリスト教の神でなくともよいのだが、キリスト教の経典である聖書に書かれた神の3つの権能が重要なのだ。本稿ではこのことを見ていきたい。
■キリスト教の神について
欧米人の主流の宗教はキリスト教である。因みに、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神はエホバ・ヤハウェ・アラーと様々に呼ばれているが、同一の神である。
神がどういう存在であるかに関して、人格神と考える立場もあれば、理神論で考えるような非人格的な神であると考える立場もある。更には、世界と神が別である一般的な見方から、我々人間を含む世界どころか時空の全てが神であるとする汎神論の考え方もある。"神学"として神を考え出すと果てが無い。
こういった「神とは何か?」といった疑問は一先ず脇に置き、もっとプリミティブな神を一般の欧米人が捉えている神として、本稿での議論における神としよう。それというのも、この一般の欧米人が捉えている神と同様の神が持つ権能が、エディップス期の超自我と大きく関係してくるからである。
■3つの権能を持つ神
本稿でいうプリミティブな神とは、日本人がイメージするところの「お天道様」としての神である。ただし、天照大御神のような具体的な太陽神ではなく、もう少し抽象的かつ素朴な「天」という神である。日本人は何ら後ろ暗い所が無いときに「天に誓って恥じない」と言い、子供には「悪い事をしてもお天道様が見ているよ」と教え諭す。
同様に、欧米人も何ら後ろ暗い所が無いときに「神に誓って恥じない」と言い、子供に「悪い事をしても神様が見ているよ」と教え諭す。また、キリスト教徒が行う「主の祈り」の冒頭部の文言は「天にまします我らの父よ」である。これらのことからも窺えるように、キリスト教の神についても一般的な人々の素朴なイメージとしては空の上の存在が神なのである。
では、素朴なイメージの「キリスト教の神」はどんな存在だろうか。超自我の形成との関係でいえば、以下のような存在であると言える。
1.ルールを設定する
2.賞罰を与える
3.隠し事はできず全てを知っている
まず、1.「ルールを設定する」に関して、キリスト教の神がそのような存在であることの記述が聖書中にある。例えば、創世記において「善悪を知る木の実を食べてはいけない」というエデンのルールをアダムとイブに神は与えている。また、出エジプト記において「モーセの十戒」を神は授けている。
そして、2.「賞罰を与える」についても同様だ。創世記にあるノアの箱舟のエピソードにおいて人々の堕落に対する罰として大洪水を神は齎している。また、ソドムとゴモラの悪徳と頽廃に対する裁きとして天から劫火を下している。そして、先に挙げたアダムとイブのエピソードにおいてエデンのルールを破った二人に対してはエデンから追放して"死すべき存在"にするという罰を与えている。
1.と2.については上記のような有名なエピソードがあるのでイメージし易いと思う。一方、3.「隠し事はできず全てを知っている」についてはキリスト教徒以外でも知っているような有名なエピソードはない。とはいえ、そのことについて述べた箇所が聖書に無いわけではない。3.の神の性質について述べた聖書の箇所を挙げれば以下がそうであるだろう。
更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
以上で示した「1.と2.と3.の権能を持つ存在としての神」の概念を用いて、これからエディップス期の超自我について見ていこう。
ひょっとすると「お天道様」の概念を用いて解説した方がエディップス期の超自我としては分かり易いかもしれないが、「一般的な人々が抱いている、素朴なキリスト教の神」でエディップス期の超自我を解説していこう。
■"素朴で力ある神"を考えるにあたっての注意
神は人々に守るべきルールを示す。そして、神は人々が為した行動をすべて知り、定めたルールを遵守した人間には恩恵を与え、逸脱した人間には懲罰を下す。神がそのような存在であるから、人々は神の恩恵を求めて神の定めたルールを守り、神の懲罰を恐れて神が定めたルールを逸脱しないようにする。
もっとも「ホントに神は居るのかね?悪いヤツに神は罰を与えるというが、『憎まれっ子世に憚る』という状況はいくらでもあるんだが?」と疑義を抱く人は昔から居た。あるいは、神のルールの公平性を疑うものもある。キリスト教の神のルールではないが、『史記』を書いた司馬遷の「天道、是か非か」という言葉は"天のルールの公平性"に疑問を抱く言葉として有名だ。つまり、現実世界における「神」についてみると、その存在の有無を含め様々な疑念が生じる。
しかし、本稿の目的は「神」自体の考察にあるのではなく、フロイト理論の「超自我」を考えることにある。それゆえ、以降の議論においては、神は確実に存在しており、ルール設定の権能・賞罰を与える権能・全てを知る権能を持っているとして考えよう。というよりも、神をそういう存在と仮定して"超自我について"考察していこう。
■神の視線と神のルールの内面化
さて、1.と2.と3.について100%の権能を神が持っているとする。そして、そのことについて人間側もシッカリと理解しているとする。この場合における社会とは「神による管理社会」である。
人間よりも上位の存在である神による管理社会では、生活のあらゆるシーンにおいて神が定めたルールが常に適用される。また、そのルールの遵守・逸脱に対応した賞罰が与えられる。このように神から常に見られている状況において、人々は「神の視線」と「神のルール」を内面化する。そして、「神の視線」と「神のルール」を人々が内面化し終えたとき、もはや神がたとえ人々を監視しておらずとも、人々は神が定めたルールを守るようになる。
このメカニズムは前回の記事で説明したパノプティコン構造による規律の内面化のメカニズムである。
そして、この神の権能によって成立するパノプティコン構造によって内面化された「神のルール」が"道徳"となり、また、内面化された「神の視線」が"エディップス期の超自我"となる。
■エディップス期の超自我の形成に対する宗教の役割
神の権能によって成立するパノプティコン構造によって個人が保有する道徳と超自我が形成される。
しかし、ここで根本的な問題が2つある。一つ目は先の3つの権能を持った神が本当に実在しているのかという問題である。もっと正確にいえば、そのような神の実在についての確信が得られるかどうかの問題である。そして、二つ目の問題は、神が定めたルールは我々の社会の道徳と整合性があるかどうかの問題である。
この2つの問題に対して、多くの宗教は「神の3つの権能についての説得的な物語」と「我々の社会の道徳と整合性のある神のルール」を提供している。そして、この宗教が果たしている役割が、通常一般の欧米人が宗教を信じていない人間の道徳心に疑いの目を向けさせていることに繋がっている。
■一般的な日本人と一般的な欧米人の宗教についての感覚の違い
通常一般の欧米人は「宗教を信じることは、その宗教の経典を信じることであり、そして経典に書かれている内容を信じることだ。そして、大抵の宗教の経典には3権能を持つ超越的存在のことが明示されている」と考えている事が少なくない。つまり、「『書かれていることだからそうである』と人々は信じている」と彼らは考えるわけだ。そして、自身もそういった宗教によって超自我を形成して道徳を身につける。
一方、通常一般の日本人の感覚からすると、「神の3つの権能についての説得的な物語」と「我々の社会の道徳と整合性のある神のルール」が記された宗教の経典は、「一般的な人々が抱いている素朴な神」の実在を感じることに必要不可欠という訳ではない。
ここでいう通常一般の日本人とは、注連縄が付いた巨木や巨岩をご神体として何となく尊重し、初詣に出掛けておみくじを引いてお守りを買うような多くの日本人のことである。パノプティコン構造を成立させる3つの権能を保有する存在を明示する経典を必要とせずに、緩やかな形ではあるものの「お天道様あるいはご先祖様(や世間様)」といったものに当該3権能があることを信じている。
ただし、アニミズム的宗教の場合、明確な経典が不存在であることも多い。さらにアニミズム的宗教を信じている人々はその宗教を信じている自覚に乏しいことも少なくない。つまり、多くの日本人は「自分は無宗教である」と自認しているのだが、実際はアニミズム的宗教を信仰している人間なのだ。
ともあれ、エディップス期の超自我の形成において、保有する3権能の程度はどうであれ、人間から超越した「力ある神々」の存在を緩やかであっても信じているかどうかが重要である。そして、このことに宗教は大きく関わっているのだ。
■超越者としての保護者とエディップス期的超自我
さて、これまで宗教と超自我の関係を見てきた。ただし、注意して欲しいが、宗教の存在があって初めて超自我が形成される訳ではない。幼児は宗教に触れる前に、先の3権能を保有する存在に関わっており、その存在がエディップス期の超自我の原型を形作っている。その原型が宗教が受け入れられる下地を作っている。
そして、超自我の原型となる存在とは「幼児にとっての超越者としての保護者」である。
「幼児にとっての超越者としての保護者」の有り様は、素朴な神の有り様と非常に類似している。このことを本稿での議論と前回記事で述べたことから理解して欲しい。
蛇足ではあるが、「幼児にとっての親とは"力ある神"なんだな」との自覚を持ちつつ子供に接する親が増えることを私は願う。
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