幽霊の正体見たり枯れ尾花
今日は現象学についての記事を書こう。現象学に限った話ではないけれども、ヘンテコな理解を目撃すると、本稿のような解説記事を書こうという気持ちになる。もっとも、私がそんな解説記事を書かなくても入門書を紹介すればいいんじゃないの?という疑問が生じるかとは思う。おそらくそちらの方が賢い行動であるだろう。ただ、「ちゃう、それはちゃう」と私個人が単に言いたくなった、そんな気持ちを吐き出すために解説記事を書こうと思う。
さて、現象学について考えるとき、本稿の記事の題名にした「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の句を具体例にして考えると現象学の本筋を外さないように私は思う。因みにだが「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の元の形は江戸期の俳人横井也有の句「化物の正体見たり枯尾花」である。
なぜ「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の句を使って現象学を考えるとよく分かるのかといえば、現象学が確信あるいは自明性を問う学であることが、句中での推移する二つの現象を切り分けることで、ハッキリと分かるからだ。また、この句を材料に考えると、現象学のフレームワークも掴みやすい。「エポケー(判断停止)」が何であるのか、「ノエシス-ノエマ」もそれそれ何であるか明確に分かる。また、現象学的還元として一纏めにされている、超越論的還元と形相的還元が何かも把握し易い。
また、現象学の応用であるフェミニスト現象学や、ウェーバーの理解社会学の方向での社会学方法論である、意味解釈法におけるシュッツ流の(ある意味で間違っている現象学理解の)現象学的社会学も理解し易くなる。
入門的な現象学の解説をみると、「枯れ尾花、正体見たり枯れ尾花」みたいな対象を具体例として用いて現象学のフレームワークを解説している事が多い。まぁ、形相的還元について詳しく考えるならばそのほうが理解し易いとはいえる。しかし、「エポケー(判断停止)」に関して、考察対象を現象学的領域にひっぱり上げる際の、時間を停止してシーンを切り取る性質が分かり難くなる印象を受ける。
また、フェミニスト現象学や現象学的社会学のような現象学の応用分野の話も、いわば「幽霊≠枯れ尾花」が前提に議論されているトピックが多い。そのため、「枯れ尾花、正体見たり枯れ尾花」のような事態を想定したオーソドックスな現象学の解説よりも、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のような事態で解説した方が、現象学を理解し易い。
現象は刻々と変化する
「目の前にコップがあることで哲学ができる」というのはサルトルと現象学の出会いのエピソードとして有名だ。しかし先にも述べた通り、「枯れ尾花、正体見たり枯れ尾花」という形のサルトルのエピソードと同型の事態は、「そうだと思った瞬間の現象」を現象学が思考の対象としていることが分かりづらい。
現象学の根本的な問いは「なぜ私はそうだと思っているんだろうか?」というものである。この問いかけをしたとき、注意をしていないと時間が流れて、考察しようとした「私がそうだと思った現象」とは別の「私がそうだと思う現象」になってしまう。しかし、「目の前にコップがある」という種類の現象を用いて考えるとき、時間が流れても「目の前にコップがある」という意識の上で生じている現象が変化していることが分かりづらい。
この時の問題を説明するにあたって、方丈記の冒頭の文を用いよう。
「目の前にコップがある」という現象の意識の上でのあり方も、上記の"ゆく川"と同じあり方をしている。方丈記の言い方に倣えば「目の前にコップがあることは変わらずして、しかももとの現象にあらず」といったものになるだろう。つまり、サルトルのエピソードと同じ種類の具体例を用いた考察では、考察対象としようとしてる現象とは別の、「同じものだと思っているだろうけど違う」という現象を考察してしまいがちになる。
サルトルのエピソードのような具体例は、「その瞬間の現象」を考察の対象とする現象学の枠組みが分かり難い。したがって、「見間違い・思い違い」がある場合の事例こそが、「その瞬間の現象」を現象学の対象としていることを理解し易くなる。つまり、「幽霊の正体見たり枯尾花」の句の状況が現象学を説明するにあたって適しているのだ。
エポケー(判断停止)とは
意識の上で刻々と変化する現象に対して、その一瞬を切り取った「現象のスナップ写真」とでもいうべき状態の現象を、現象学では考察の対象とする。意識の上を流れる現象を一旦ストップさせて、考察の対象とする行為を現象学では「エポケー(判断停止)」と呼んでいる。
この「意識の上を流れる現象を一旦ストップ」という表現は、ちょっと誤解が生じる余地あるので、もう少し詳しく説明しよう。先に「川の流れ」に譬えて意識の上を流れる現象を説明したが、もう一度同じ譬えで説明しよう。
川べりに立つ人が「今この瞬間の川の様子を考えたい」と思って写真を撮ったとする。当然ながら写真を撮った後でも現実の川は流れている。しかし、写真の中の川は「シャッターを押した瞬間の川」で停止している。
このシャッターを押す事がエポケーに当たる。そして、現実に流れる川をカメラを用いて「写真の中の川」にすることは、現象を現象学領域に移すことに相当する。そして、写真の中の川を用いてその瞬間の川の様子を考えることが、現象学領域に移された現象を現象学のフレームワークで考えるということになる。
さて、ここで「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の句で表された状況に関して「うわ!幽霊だ!」と思った瞬間の現象を現象学で捉えようとしている場合を考えよう。このとき、現実の意識の上での現象の流れは次のようになっている。
このあたりは薄暗くて嫌だなぁ。
うわ!幽霊だ!
なーんだ。ススキじゃないか
現象学で考えるにあたって、1.でも2.でも3.でも、どの時点の現象でも対象にできるのだが、今回は2.の時点を対象にする。このとき、エポケーによって現象学領域に移された現象は、「2.うわ!幽霊だ!」と意識した時点の現象である。
このとき、現実の意識の上の現象の流れは「2.うわ!幽霊だ!」から「3.なーんだ。ススキじゃないか」に移り変わっている。しかし、エポケーによって現象学領域に移された現象は、「2.うわ!幽霊だ!」の段階で停止して「3.なーんだ。ススキじゃないか」には移り変わらない。というよりも、そのように現象学的領域に移して現象の動きを止めることこそ、エポケーという操作なのだ。
「ノエシス-ノエマ」と「超越論的還元-形相的還元」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の句で表された状況の「うわ!幽霊だ!」と思った瞬間の現象を用いて、当節では「ノエシス-ノエマ」を解説していこう。
「うわ!幽霊だ!」と思った瞬間には、幽霊だと思ったものが見えている。この現象における「幽霊っぽいもの」がノエマであり、「幽霊であると思い込んだ意識」がノエシスである。
擬人法を用いると誤解が生じることもあるのだが、ノエシスは幽霊を見た人に擬えることができる。微妙に違うのだが、主体がノエシスで客体がノエマであると暫定的にイメージしておいてもいいかもしれない。
■ノエマと形相的還元
まずは説明が簡単なノエマと形相的還元から見ていこう。
ノエマである「幽霊っぽいもの」が何故幽霊っぽいのか、そのノエマにどういう構造があるから「幽霊っぽく」見えるのかを明らかにする現象学の操作が形相的還元である。「幽霊っぽいものは、かくかくしかじかによって幽霊っぽい」と「幽霊っぽさのもとになっているもの」を明らかにするわけである。「もとになっているもの」を明らかにするので、この操作は"還元"という訳だ。また、その現象を幽霊たらしめる要素を明らかにするので、"形相=エイドス=本質"に還元すると呼ばれることになっている。
もう少し形相的還元について説明しよう。
形相的還元はアリストテレスの四原因説に登場する「形相因・質量因・始動因・目的因」の内の形相因として捉えられるものに現象を還元すると考えてもいい。具体例で説明するならば、「うわ!幽霊だ」と思ったときの現象での幽霊たらしめている要素は形相因に対応する。逆に言えば、形相の側面からみられる現象がノエマである。つまり、現象の形相因で捉えられる側面がノエマであり、ノエマの側面から現象の成り立ちを要因毎に分けて考えることが形相的還元であると言える。
この形相的還元に登場する「形相=エイドス=本質」についてなのだが、世間一般にはアリストテレスの師匠であるプラトンの「イデア」として理解した方が分かり易い。また、その現象のイデアを見て取ることも形相的還元なので、本質直観や本質観取と呼ばれることもある。
■ノエシスと超越論的還元
次にノエシスと超越論的還元を説明しよう。
ノエシス-ノエマ構造は主客構造に似ている。しかし、ノエシスが主体と決定的に違うのは、ノエシスが意識の作用とでも表現できるものなので、何かと必ず結びついている点で主体と異なっている。つまり、主客構造においては主体と客体は分離可能なのだが、ノエシス-ノエマ構造に関しては分離できない。意識は常に何かについての意識なので、意識から「何かについての-」の部分を切り離せないのだ。この意識の「何かについての-」という性質を現象学では志向性と呼んでいる。因みにだが、それが存在するかは脇において、意識から「何かについての-」という性質を取り除いたものは純粋意識と呼ばれている。
さて、「ノエシスが意識の作用とでも表現できる」と述べたが、先のアリストテレスの四原因説の枠組みで言えば、ノエシスは現象の始動因に相当する。例を用いて説明すれば、「うわ!幽霊だ」という現象を作り上げた意識の働きの側面がノエシスである。このノエシスの側面をよくよく注意してもらうと分かるのだが、「何かを作り上げる」という形でしかノエシスは存在し得ない。つまり、意識はノエマを作り上げるノエシスという構造を持っており、それが現象に他ならないという訳である。
超越論的還元とは、ノエシスの側面から始動因として捉えられるものに現象を還元すると考えてよい。現象が何によってどのように作られているのか、その要素毎に分けて把握しようとするのが超越論的還元である。
ここでノエシスの側面から現象学的還元を行うことを、"超越論"的還元と呼ぶことについて、"超越論"の意味について簡単に説明しておこう。
この"超越論"の単語が出てくると哲学では必ず「"超越"と"超越論"は全然違う!」と力説される。「"超越"も"超越論"も『枠組みから外れる』という観点では同じなのだが指している対象が全然違う」と私も力説しておこう。
哲学でいう「超越」とはいったい何なのだといえば、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の中で述べていた「語り得ぬもの」が「超越」である。
一方で、「超越論的」はというと「メタ的」といった意味である。誤解を恐れず日常的な言い回しで表現すれば、超越論的○○とは「一歩離れた所から見た場合の○○」といった程度の意味である。微妙にズレるのだが、俯瞰的・第三者的・客観的等の言葉と似た意味を持っている。したがって、超越論の対象も超越論の枠組みでの議論も「語り得るもの」である。
「超越論的主観性・間主観性・純粋意識」を考察する
本稿のこれまでの解説に関しては、現象学の概念の解説の仕方にオリジナリティがあっても概念の解釈には特にそういったものはない。もちろん、これまでの現象学についての解説は、静態論的現象学の話だけで発生論的現象学の話に触れていないともいえる。しかし、本稿の"現象学の手引き"としては静態論的現象学だけを取り上げる方針に関して、フッサール自身もまた静態論的現象学を"手引きの現象学"として扱っているので、間違ってはいないだろう。
ただし、これから述べることは私個人の「現象学の概念」についての独自解釈が含まれる。したがって、以降の考察については通念的理解とは異なることに注意されたい。
さて、現象学的還元は本質的には「形相的還元のやり方の還元=本質直観」であって、一般的理解での形相的還元と超越論的還元の違いは還元する対象の差異に過ぎず、やっている操作は同じだと私は考えている。
そして、超越論的還元に関して、その還元には二段階あるように思われる。すなわち、「ノエシスがノエマをどのように構成しているのか」というノエシスが行っている具体的な構成を還元している段階と、そんな構成を行うノエシス自体を還元する段階がある。
この二段階目のノエシス自体を還元して取り出されるものが「超越論的主観性」であると私は解釈している。ノエシスのエイドス、ノエシスのイデア、ノエシスの形相、ノエシスの本質、あるいは主観性のエイドス、主観性のイデア、主観性の形相、主観性の本質等で言い表せるものを取り出す操作を、超越論的還元の二段階目では行っている。つまり「"還元"とはそもそもなにかといえば本質直観であり、すなわち"イデアを見る事"である」として、「主観そのものを対象に本質直観した場合に出てくるものは主観のイデアである」と考えるのだ。
こうやって取り出された「主観のイデア=超越論的主観性」なのだが、当然のことながらイデアとしての性質を持っている。具体的な個々の主観とは異なる在り方の存在となっているのだ。譬えるならば、犬のイデアの存在の在り方が、具体的な個々の犬であるポチやチョビという存在の在り方とは異なるのと同様なのだ。それゆえ、超越論的還元の二段階目で取り出された、イデアという在り方をしている主観性について、"超越論的"という冠をつけて「一般的な意味での主観性」とは異なる在り方をしているものであることを示しているのだ。
この「主観のイデア=超越論的主観性」の「具体的性質の性質」―—間主観性―—について考察しよう。ただし、「○○のイデアの具体的性質の性質」との表現が分かり難いと思うので、それが何を指しているかを先に説明する。この表現の説明にあたって先の犬の譬えを用いる。
さて、「犬の概念」を具体的にみると「 食肉目イヌ科の哺乳類。嗅覚・聴覚が鋭く、古くから猟犬・番犬・牧畜犬などとして家畜化。多くの品種がつくられ、大きさや体形、毛色などはさまざま。警察犬・軍用犬・盲導犬・競走犬・愛玩犬など用途は広い。(デジタル大辞泉)」といったものになる。つまり、「犬の概念」の具体的性質とは、辞書に書かれているようなものであって、哲学的意味での個物である個々の犬(たとえばポチやチョビ)を指していない。そして、「犬の概念の具体的性質の性質」とは、個々の犬がそれを持つという性質、言ってみれば「間-犬性」とでもいう性質である。ポチやチョビが犬の概念(犬性)を有しているという性質、すなわち、個々の犬は犬性を持つという間犬性が「犬の概念の具体的性質の性質」である。
超越論的主観性の具体的性質の性質も同様である。個々人の主観性がそれを持っているという性質、すなわち間主観性が、超越論的主観性の具体的性質の性質である。
では、超越論的主観性の具体的性質とはどのようなものなのだろうか。
この超越論的主観性の具体的性質は、ユクスキュルの環世界の概念を用いると理解し易い。つまり、「現象学でいうところの超越論的主観性」の具体的内容は、「ヒトという生物種の環世界」と重なっている。ただ、ユクスキュルの環世界の概念では微妙にズレている部分もあるので、もっとピッタリとしている概念で説明しよう。
その概念とはハイデガーの「世界内存在」の概念である。ハイデガーがフッサールの弟子であることから、当然と言えば当然なのだが、ハイデガーがいう「世界内存在」の在り方が、超越論的主観性の具体的性質である。
次に「純粋意識」について考えていきたい。
意識から志向性を取り去ったものを「純粋意識」と呼ぶと、先にちょろっと触れた。この理解自体には変わりがない。また、その理解は通念的理解と一致していると言ってもよい。しかし、「超越論的主観性=純粋意識」との通念的理解は間違っていると私は考えている。
一般的なフッサール理解では「初めの頃に『純粋意識』と呼んでいたものを、後に『超越論的主観性』とフッサールは言い換えた」とされている。しかし、私はそうではないと思う。フッサールは初めの頃には「純粋意識」を論じようとしていたのだが、純粋意識というものが論じることが可能な性質を持っていないので、超越論的主観性というものについて考えることにしたのだろうと私は考えている。
つまり、純粋意識は"超越"であったので論じることを止めて、論じることが可能な超越論的主観性を論じることにしたのだと私は解釈している。すなわち、認識論を論じた近代哲学者達が、当初は「超越である神」について論じようとしたものの、「超越である神は語り得ぬもの」なので「語り得る人間の認識」について論じるようになった事態と同様の事態が、フッサールにも起きたのだと私は思う。
ただし、超越に関して「語り得ぬもの」ではあるが、超越を語るときの方法として可能な方法に否定神学という形がある。否定神学とは「神は○○ではない、神は△△ではない、神は□□ではない、・・・」という形で神について語るやり方だ。超越である対象については基本的にこの形でしか論じることが出来ない。
否定神学の形式で純粋意識を語ることを望まなかったフッサールは純粋意識について論じることを断念することにしたのだろう。そして純粋意識に関して、弟子のハイデガーがリベンジするかの如く、なんとかして肯定的に考察しようとしていることからも、私はその思いを強くしている。
例えば、ハイデガーは「退屈」について長々と考察している。ハイデガーが退屈を考察している意図を扱う論考に私は残念ながら出会ったことがないのだが(※これは単に私の怠慢です。本気で探し回ったことなどありません)、私はハイデガーが退屈を扱った意図は、退屈についての考察を通して純粋意識がどういうものかを考察しようとしたところにあると睨んでいる。「退屈している状態は、意識の志向性が弱くなっている状態」であるから、退屈している意識は純粋意識に近づいている意識の状態であるとして、ハイデガーは退屈に関して考察したのだろう。
また、ハイデガーは「死」についても論じているが、あれも「死=自己の無への志向性を持つ意識」という、「志向性が無い意識=純粋意識」に類似しているようにも見える意識の状態を考えようとしたのではないかと私は解釈している。
もちろん、純粋意識が何かを明らかにするという点に関しては、「退屈についてのハイデガーの思考」「死についてのハイデガーの思考」のどちらに関してもほぼ何も役立っていない。ただ、退屈というものについて、死というものについて、その性質やそれが持つ作用が副産物として明らかになっただけである。つまり、ハイデガー哲学全体を見ても、純粋意識に当たるものを肯定神学的方向では、当然ながらマトモに論じ切れていない。
まぁ、フッサールが純粋意識について論じるのをやめたこと、ハイデガーの興味関心が純粋意識に向いていたのかどうかの確度についてみると、私自身も大して自信があるわけではない。何となくそうなんじゃないかな、といった程度である。文献学的・学説史的な厳密性をもった考察ではない。単なる私の印象である。
ただ、以下の解釈については私自身は現象学の理解として正しいと確信している。
純粋意識は超越であって「超越論的主観性≠純粋意識」ということ
超越論的主観性は言わば「主観性のイデア」であって「語り得るもの」であること
間主観性とは「超越論的主観性を個々の主観が持っている」という性質を指していること
超越論的主観性の具体的な内容は「世界内存在である」ということ
応用現象学:社会学の分野で用いられる現象学
■シュッツの現象学的社会学
社会学の方法論の三本柱といえば、意味解釈法・統計的帰納法・数理演繹法と言っていいだろう。意味解釈法はウェーバーの理解社会学を淵源とするものなので、シュッツが生み出した考え方・方法論というわけではない。しかし、現象学的社会学はシュッツが始祖といってよく、それから影響を受けたエスノメソドロジーを始めとする意味解釈法に属する社会学の方法論を考えるとき、シュッツの存在は巨大といっていい。
そこで、シュッツの現象学的社会学について簡単に見ていきたい。
シュッツの現象学的社会学は、現象学的還元の逆の操作の、いわば「現象学的復元」とでも言ってよいことを目的にしている。つまり、「彼らは、かくかくしかじかの構造をもつノエシスを持っている。またノエマはかくかくしかじかの構造である。するとかれらの意識において表れているのは『かくかくしかじかの現象(※社会学では"社会的事実"と呼ぶ)』ではないだろうか」という訳である。
ウェーバーの理解社会学の流れを汲む社会学の立場からいえばそれは正しい。しかし、本来の現象学の立場からみればシュッツの現象学的社会学はやっていることが逆なので、「アレは"現象学"なんて冠をつけているが、現象学を理解せず、全く別のことをやっている」と批判されている。「まぁ、そりゃ当然そんな風に批判されるわな」と思わなくもないのだが、シュッツが自分の社会学に「現象学的」との冠を付けた気持ちも理解できなくはない。
ただ、社会学分野で「現象学云々」との言葉が出たとき、本来の現象学の現象学的還元の方法論での議論なのか、シュッツ流の現象学的復元とでもいうべき方法論での議論なのか、混同しないようにしないといけない面倒くさい状態になっている。
■現象学的社会学およびその一分野のフェミニスト現象学
シュッツの現象学的社会学において、大前提となっている問題意識がある。その対象は「生と認識の問題」である。つまり、「生と認識の間にはズレがある」という問題意識でいるのだ。譬え話でいえば、本稿の題名にあげた「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という事態に対する問題意識である。つまり、「実際は枯れ尾花なのに、幽霊と認識しているよ」という問題意識が大前提となっているのである。
ここで面倒くさいのが、シュッツの現象学的社会学をそのまま引き継いだようなガーフィンケルのエスノメソドロジーなどは、本来の現象学の操作を逆転させたような"現象学的復元"ともいうべきことをやっている。つまり、譬え話で説明するならば、「うーん、どうも彼らは枯れ尾花をなにか違うように認識しているぞ。彼らのノエシス-ノエマ構造を詳しくみると、どうも彼らは枯れ尾花を"幽霊"と見ているようだ」という形の議論をしている。このとき、解明すべき力点は「幽霊」に置かれている。すなわち、本来の現象学でいえば逆のことをやっているのだが、シュッツの現象学的社会学を正統に引き継いだ方向で議論している。
一方、シュッツの「生と認識の問題=生と認識の間のズレ」という問題意識を共有し、「当事者性」やら「生の事実」やら現象学的社会学っぽい事を言っているのだが、議論の方向としては本来の現象学である、現象学的還元をやっている応用現象学がある。その一つがフェミニスト現象学である。これも譬え話で説明すると、「どうも彼女らは枯れ尾花を幽霊と認識しているようだ。どうして彼女らは枯れ尾花を幽霊と認識しているのだろうか?彼女らのノエシス-ノエマ構造はどうなっているのか。」という形の議論をしている。このとき、解明すべきは「ノエシス-ノエマの構造」にある。すなわち、シュッツの現象学的社会学でいえば逆のことをやっているのだが、本来の現象学を正統に引き継いだ方向で議論している。
ただし、フェミニスト現象学は他のフェミニズムの取り組みと同様のクソみたいな部分を共有している事が少なくない。つまり、ご都合主義だ。
もちろん、超一流のボーヴォワールなどは違う。ボーヴォワールの名言である「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」は、本来の現象学の方向で現象学的還元のやり方で見つけ出されたものだ。つまり、「女と自認する現象」から出発して、その「ノエシス-ノエマ」の構造を分析し、最終的な形としては名言で端的に表現された「女性の世界内存在としての在り方=女性の超越論的主観性の具体的内容」を詳らかにしたのだ。
ボーヴォワールのように本来の現象学の方向で分析してもいいし、シュッツの現象学的社会学の方向で分析してもどちらでもいい。
しかし、それをごちゃ混ぜにするのはご都合主義に他ならない。本来の現象学の方向で分析すると思いきやUターンしてフェミニズム思想の物語に適合的な形で社会的事実(≒現象)と結びつける。あるいは、シュッツの現象学的社会学の方向で分析すると思いきやUターンしてフェミニズム思想の物語に適合的な形で女性(ないしは男性)の超越論的主観性に結びつける。こんなやり方ではゴミしか出てこない。
具体的には、メルロ=ポンティが現象学に持ち込んだ「身体性」という問題が、フェミニスト現象学において影を落としている。
もちろん、現象からスタートしてエポケーをして現象学的領域に持ち込んでノエシス-ノエマに現象学的還元を行って超越論的主観性を捉える、という考察の一連の手続きの流れに「身体性」が何か変化を与えるというわけではない。そして、メルロ=ポンティがやったのと同様に、「現象のかくかくしかじかは身体性に還元される」という形なのであれば何の問題も無い。それが「現象のかくかくしかじかは女性特有の身体性に還元される」という形になろうが全く変わりない。
ところがである。「女性と男性の身体性には生物的差異がある」から「女性と男性の超越論的主観性にも差異があるはずだ」という前提をア・プリオリに置こうとするフェミニスト現象学の議論がある。そして、それが女性が体験する現象と男性が体験する現象の違いなのだとするのである。
しかし、本来であれば、以下のような形で考察されるべきものだ。
しかし、めちゃくちゃなフェミニスト現象学の議論は以下のような形になっている。
いやもう、ホントにおかしいのだ。こんな滅茶苦茶な手順で現象学としてのキチンとした結論が出てくるわけがない。料理の譬え話で説明するならば、「お鍋に油揚げとワカメを入れてコンロに載せて火をつけて出汁雑魚いれてコンロから降ろして水を入れて出汁雑魚を取り出して味噌を入れれば『味噌汁完成』となりますか?」と言う話である。
どんな現象を考察の対象とするのか決めずに「生理のある性」「産む性」という身体性から出発して、それっぽくみえる女性の超越論的主観性めいたものから当事者の物語を添え書きにして、女性特有の現象を引っ張り出してくる。
こんな似非現象学がフェミニズム分野の議論においてしばしば登場する。
「現象学」は哲学色が非常に強い。というよりも、哲学の一つの立場に"学"の名称がついているとも言える。したがって、フェミニスト現象学と銘打った議論をしている論者は哲学を学んでいるであろうことがありありと窺える文章を書いている。それにもかかわらず、結構な割合でゴミみたいな理屈に対して「現象学でござい」という風をふかしている。
いやもう、ホントなんなんだろうなぁ。