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ラカン思想:シェーマLの解釈の自由さ

 ラカン思想の鏡像段階とシェーマLの話を以下のnote記事で取り上げた。

 上の記事におけるシェーマLの解釈は「自我認識」の文脈で行ったものだ。したがって、「シェーマLはそんなもんじゃないぞ」と思った人もいたかもしれない。現時点において実際にそういう声が寄せられたわけではないのだが、そういう疑問が生じても不思議ではないので、本稿で補足しておきたいと思う。

 さて、前回に引用した、いろいろ説明がついたシェーマLではなく、もう少しシンプルな説明がついたシェーマLの図は以下のようなものだ(註1)。

 このシェーマLに登場する4つの要素「主体S,他者a',自我a,他者A」について補足しておきたい。

 ラカンは似たような関係性を持っていれば、当たらずとも遠からずという別の要素を、結構適当にそれぞれの先の要素の位置に当てはめる。そんな方法で精神活動についての様々な思想を語る。したがって、(主体S,他者a',自我a,他者A)といった形で、それぞれに特定の意味がこもるような組としてシェーマLの各要素を捉えるのは、ラカン思想を理解する上で賢明ではない。各要素の意味が適宜変わる枠組みであることが認識し易いように、各要素の組を変数を示すことが多い(W,X,Y,Z)の組のようなものに捉え直してシェーマLを理解するとよい。

 例えば、ラカンの鏡像段階の議論からの発展として先の4要素を解釈すると「自我認識に関する4要素」となる。その解釈下では4要素は

W:主体S
X:他者a'
Y:自我a
Z:他者A

として捉えられる。そして、この解釈でシェーマLを見たとき、それぞれの要素は何を意味しているのか、それぞれの矢印関係は何を意味しているのかを解説したのが前回の記事である。

 本稿では、前回の記事でみたような解釈以外で、シェーマLを解釈するとどうなのかを簡単に述べたいと思う。


■思想を捉える枠組みとして解釈した場合

 「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」「無意識は自分の言説であるどころか他者の言説に他ならない」というラカンのテーゼがある。そのテーゼの解釈の文脈においてシェーマLを考えるときは「思想に関する4要素」となる。すなわち、

W:無意識あるいは時々に浮かんでは消えるバラバラの思考
X:他者の言説
Y:自分の言説
Z:他者

といった組になるだろう。


■欲求・欲動・欲望を考える枠組みとして解釈した場合

 さらに、欲求・欲動・欲望を考える枠組みとしてもシェーマLをラカンは使う。とはいえ、欲望に関しては「欲望のグラフ」という別の枠組みをラカンは示すのだが、それはシェーマLの焼き直しといっていいものだ。ラカンは自分のアイディアながらシェーマLのアイディアを換骨奪胎したとも言える。そして、欲望の文脈においてシェーマLの4要素は

W:何がしたいのか分からないが何かをしたいという欲求など
X:上記の欲求を満たすとの思い込まれた、他者が持つ対象(「対象a」)
Y:「対象a」を持つ自己
Z:他者A

となる。またラカンの「欲望は他者の欲望である」というテーゼは、上の枠組みでも理解できる。

 まず、大前提として、何がしたいのか分からないが何かをしたいという欲求は、当然ながら本人も良く分かっていない。漠然とした精度では認識していても「ピッタリとコレだ!」と分かる形では認識できない。更に言えば、「ピッタリとコレだ!」と思い込むことはあるが、それが本当にピッタリと合っているかどうかは確かめ得ない。

 そんなモヤモヤとした欲求を持った人間が、他者Aの「何か」を見て「アレだ!自分が欲しいのはアレなんだ!」と思い込む。このように思い込まれた対象が対象aである。このときの「他者Aに属する対象a」は他者A自身の欲望により獲得されたものなので、対象aは「他者の欲望」と言えるものである。

 更に、対象aを自分が手に入れたとき、その対象aを手にした自分は、かつての自分がそうであったように、対象aを持つが故に他者から欲望の対象を持つ者と認識される。つまり、自分が手にした欲望の対象aは、かつての自分と同様の人間から欲望される対象となる。この事態もまた、「(自分が達成した)欲望は、他者の欲望である」と表現される事態である。

 具体的に見てみよう。

 他者が持っている対象aとなり得るものは色々だ。エルメスの高級バッグのバーキン・高級車のベンツ等の物質的対象でも、明晰な頭脳・頑健な肉体・美しい容貌といった能力等でも、優しさ・気高さ・落ち着きといった性格でも、あるいは友情・愛情・家族の情といった人間関係でも何でもよい。「あぁ、アレが欲しい」となるものであれば何でも対象aになる。

 ただし繰り返しになるが、その「具体的な形となった欲求=欲望」を獲得・達成したとしても、本当にそれ自体によって「何がしたいのか分からないが何かをしたいという欲求」を叶えたのかどうかは確認できない。先に出した例で説明するならば、他人が持つバーキンを見てバーキンが欲しくなってバーキンを自分も手に入れたとしても、『バーキンが欲しい』という気持ちを湧き起こさせた欲求が満たされたかどうかは、本人を含めて誰にも分からないということなのだ。

 「顧客が本当に必要だった物」というジョークを図にしたものがあるが、実際に何を欲しているのかなど自分でも理解していない。下図では「顧客が本当に必要だった物」が明らかになっているが、実際は「本当に必要な物」は誰にも分からない。

 欲求・欲動・欲望の観点からのシェーマL、とりわけ"対象a"については、上のジョーク図が"対象a"の性質を理解する助けになる。


註1 図1は以下のサイトからお借りした
kagurakanon.sakura.ne.jp

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