MBTI:外向的思考Teと内向的思考Tiの違い
MBTIの判断機能のTeとTiの違いは、もう一方の組であるFiとFeの違いと比較して理解しにくいように思われる。そこで今回はTeとTiの違いを考えていきたい。
思考ステップ数について
■思考ステップの数はTeとTiを分かつ要因ではない
さて、しばしば為される「みんなが認めている・客観的に確認できることから合理的に判断するものが外向的思考Teで、個人的観念から論理的な推論を経て判断するものが内向的思考Tiだよ」との荒っぽい説明が全て間違いだと主張したいわけではない。流行りモノとしてMBTIを消費するのであればそれで十分であるだろうし、そんなに大外しする見解でもない。
しかし、もうちょっと突っ込んで考えようとしたとき、「みんなが認めている・客観的に確認できることを起点に論理的に推論した思考で判断したときに、結果的に周囲の人々と等しい判断をした場合は、TiとTeのいずれによって判断しただろうか?」との疑問が湧きおこる。
架空例を用いてこの疑問を考えよう。
他家の子どものオモチャを息子が勝手に自宅へ持って帰ってしまったときに「他人のモノを勝手に自分のモノにするのはドロボーだよ。ドロボーになったらお巡りさんに捕まって牢屋に入れられるよ。牢屋に入れられたらママにもパパにも会えなくなるよ」と教え諭したとき、明らかに当該説諭の思考はTeに基づくものだ(註1)。
しかし、よくみると当該説諭には複数の思考ステップがある。狭義の論理推論である演繹の思考ステップではないが、常識的な因果関係からの推論の思考ステップが存在している(もちろん、説諭に登場する推論は多分に便宜的なものだ。ここでは親の思考というより説諭で示す思考を子供になぞらせると考える)。冒頭に挙げた説明では、推論過程を経た思考はTiになるような説明だが、Teに基づいているように見える当該説諭での思考は、推論過程が存在する思考である。
しかし、推論過程が存在する思考であるにも関わらず、なぜ当該説諭における思考はTiではないのだろうか。ひょっとしたら、思考ステップが3ステップと少ないのでTeなのだろうか。すなわち、量的変化が質的変化を齎す類の現象によってTiとTeは分化するのだろうか。閾値が存在して境界がハッキリしている変化なのか、あるいはもっとファジーな変化なのか。そんな差異はともかく、推論過程の長短が質的変化を生じさせる要因なのだろうか。
しかし、たとえ10ステップ、100ステップに思考ステップ数を増加させたところで同様の思考をしているならば、当該説諭はTe思考であることに変わりはないように思われる。つまり、思考ステップの量的変化が質的変化に転化してTeがTiになる、あるいはTiがTeになるといったことはないと考えられる。つまり、思考ステップ数が例え「1」であったとしても、その思考がTiとなることは有り得るということだ。何となくTiは複数の思考ステップを持つ思考というイメージが流布している。しかし、思考ステップ数はTiやTeを規定する要因と考えるべきではないだろう。
では、TeとTiはどのように違うのだろうか。
外向的思考Teと内向的思考Tiの「外と内」とは
■「外向eと内向i」に立ち返る
この問題を考えるにあたって基本に立ち返ろう。すなわち、「外向的思考Teは外的要素に注目して合理的・論理的に考える思考」「内向的思考Tiは内的要素に注目して合理的・論理的に考える思考」との簡潔な意味から考察しよう。
さて、先に挙げたTeの外的要素はしばしば"外界の要素"として言い表されることが多い。Te単独で考える際には外的要素を外界の要素として捉えても意味内容は大して変わらないので問題がないのだが、TeだけでなくTiも併せて考える場合に誤った認識を生む危険が高い。それというのも外的要素を外界の要素として捉えると、それぞれの「外的-内的」が「外界-内界」に翻訳され、内的要素が"内界の要素"として解釈されることになるからだ。
翻訳された"外界の要素""内界の要素"は、"自己の外界の要素""自己の内界の要素"を意味する省略表現であり、別表現で示すならば「自己外部の要素」「自己内部の要素」となってしまう。
この「自己内部の要素」として真っ先に思い浮かぶのが自己の感情である。つまりは、自己内部の要素に着目する思考としてTiを解釈すると、判断対象の事態から自己の感情を導出して評価する思考となってしまうことがある。つまり、「かくかくしかじかの判断対象は自己の感情システムに入力すると、かくかくしかじかの自分の感情が出力される」という思考に基づいて、判断対象の事態から自己の感情を導出して判断を下すこととなる。だが、その心理機能はFiであってTiではない。
つまり、内向的思考Tiの"内向"は何らかの意味での"内に向いたこと"をさしているのだが、そこで意味される"内"は自己の内部を指していない。では何の"内"なのか。
■内向的思考Tiの"内"とは何か
さて、「この事態はかくかくしかじかの事態である」との事態に対する認識を前提にして、我々は判断を下す。この認識が成立するには事前に「かくかくしかじかの事態」についての観念を保有していることが前提となる。
このことについて抽象的な話だと何を言っているのか分からないかもしれない。そこで具体的に説明しよう。
例えば、丸くて赤い甘酸っぱい匂いのする果物が目の前にあったとしよう。このとき、「この果物はリンゴだ」と認識するためには「リンゴの観念」を事前に保有していることが前提となる。そして、この関係はリンゴのような物質的な実体を持つ対象だけでなく、出来事・事態などであっても同様なのだ。
この保有している「かくかくしかじかの事態」についての観念に関して、観念は一つの体系として存在している。したがって、「その観念体系の内側と外側」が存在する。分かり易く先に挙げた「リンゴの観念」で説明するならば、リンゴの観念体系に属している観念と属していない観念がある。例えば「赤い色」「丸い形」といった観念はリンゴの観念体系に属しているが、「大きな排気量」「少ない積載量」といった観念はリンゴの観念体系に属していない。もちろん、観念体系の元になる社会に存在する概念体系は時代によって、個人が保有する観念体系も経験や知識によって変化する。そうであっても、ある時点における観念体系の内外は存在する。
この観念体系の内外こそが内向的思考Tiと外向的思考Teの内外なのだ。つまり、観念体系の内にある要素から思考して判断を下すのがTiであり、観念体系の外にある要素から思考して判断を下すのがTeと言っていいだろう。
TiとTeを具体的に考える
■Tiによる判断とTeによる判断を比較するときに用いる具体例
これまでの議論においてTiを中心にTiとTeの性質を考えてきた。しかし、それぞれによる判断に関して具体的なイメージが湧く形で考察していたわけではない。そこで比較可能なような具体例でこのことを考察しよう。その際、私個人が中学生だった時に違和感を感じた例を出そうと思う。
上記の具体例はフィクションの中で教師の生徒への愚痴として語られるものであったと記憶している(註2)。フィクション中での愚痴を語る教師の理解において、生徒は功利的理由から校則違反する一方でアルバイト先の就業規則は遵守すると結論付けていた。すなわち、校則違反をしても実害のない(反抗可能な)叱責のみがデメリットとして認識される一方、アルバイト先の就業規則違反はアルバイト先を馘首されて金銭的損失が生じる等の実害のあるデメリットがあるため、生徒の規則に対する態度が異なるとの説明であった。そして、規則に対する対照的な生徒の行動がなぜ生じたのかについての仮説は、功利的理由に基づく仮説のみが文中で示されたのみであった。
題名や著者はおろか全体のストーリーやキャラクター等も全て忘却の彼方にあるにも関わらず、フィクションのワンシーンのみが私個人の中で長く記憶に残ったのは、この生徒の行動についての教師の愚痴で展開された功利的理由による説明に対する私の中で当時に生じた違和感のためである。
「アルバイト先の頭髪についての規則には根拠があるから反発しなかったが、学校の頭髪についての規則は無根拠であるから反発したのではないだろうか?」と中学生だった私は考えた。
アルバイト先において短髪であることが規則で定められていたのは、安全上や衛生上の要因で長髪が不都合であるとの理由がある。一方で、学校においても短髪であることが規則で定められているが、学校生活において長髪が不都合である理由は特に思い当たらない(註3)。この「ルールが定められることになった必然性の有無」こそが、当該生徒が校則違反をする一方で、アルバイト先の就業規則は遵守する姿勢の違いとなったのではないかと、当時の私は考えたのである。
このフィクションに登場する状況を巡る思考から、TiとTeを考察していこう。
■少ない思考ステップ数のTiとTe
さて、本稿での最初に思考ステップ数がTiとTeを分かつ要因ではないことを確認した。つまり、思考ステップ数が極端に少なく場合であっても、Tiの判断の場合もあれば、Teの判断の場合もあるということだ。ついつい、決まりきったと思われる判断に関して、Teのような印象を受けることもあるのだが、よくよく考えて分類するならばTiであることが少なくない。例えば、以下の思考がTiとTeのいずれに該当するか考えるとよい。
「ルールだから守らねばならない」・・・(★)
頭髪に関する校則、およびアルバイト先の頭髪についての就業規則を遵守すべきとの判断を下したとき、1ステップしかない(★)だけの思考で判断したとき、この判断はTiに基づく判断といえる。それというのも「ルール」という観念には「それは遵守すべきもの」という、行動を規定する内容が含まれているからである。つまり、観念に内在する内容から判断が導き出されている。観念体系の内にある要素から思考して判断を下しているので「(★)だけの思考による判断」はTiと言っていいだろう。
ここで反省を込めて注意を促しておくが、(★)だけの思考について、世間的・常識的に"そうである"とされているものに従う思考であることをもって、Teと単純に考えてしまうこともあるかもしれない。実際、私自身も本稿で改めて考察するまで、そのように理解していた。また、過去のnote記事においてもそのようにTeを説明していたように思う。しかし、今回改めて心理機能である"判断機能"における「内向-外向」について詳細に検討すると、世間的・常識的に"そうである"とされているものに条件反射的に従う思考は、単に思考ステップ数が少ない思考であって、内向的思考Ti-外向的思考Teという思考の種類の違いではないことが分かった。
次に、思考ステップ数が少ないTeに基づく判断を挙げて比較しよう。
A1:ルール破りにはサンクションが加えられる
A2:サンクションにより生じるデメリットからみて、ルールは遵守すべき
この「A1-A2思考」全体で見るならば、この思考はTeに当たるだろう。なんといっても「ルールは遵守すべき」という判断が生じたのは、「ルール破りをする主体」と「ルールを破ったときのサンクション」との関係性で生じる、「ルールの観念体系外に属しているデメリットを根拠」にしているからである。このことについて考察するために、A1思考とA2思考を分けてみていこう。
まず、A1思考だけで考えてみよう。
これ単体では判断機能とは言えず、認識機能といえるだろう。この部分だけを取り出すと心理機能のうち認識機能のN(直観)に当たると思うのだが、それがNeに当たるかNiに当たるのかは判然としない。また「"ルール破り"ならば"サンクションが加えられる"」という思考として捉えるならばTiであるとも言える。これは、"ルール破り"という観念には"サンクションが加えられる"との内容が含まれていることから、演繹という手段によって結論を導出していると分かるからである。
次に、A2思考の部分だけで考えてみよう。
A2思考の前半部「サンクションにより生じるデメリット」についてなのだが、ついつい「サンクション=デメリット」という形で短絡的に結び付けて考えがちになる。だが、よくよく考えるとサンクションがデメリットになるかどうかは、ルール破りをした主体によって異なる。
このことは、別の事例でみれば明らかだ。
例えば、生活の当てのない元受刑者が刑務所に収容されることを目的としてコンビニなどから数百円の弁当を盗むことある。そして、累犯者の窃盗に対するサンクションは量刑相場からいって懲役である。しかし、生活の当てのない元受刑者という、刑法を破った主体からすれば、窃盗というルール破りのサンクションである刑務所への収容はデメリットではなくむしろメリットである。つまり、サンクションは必ずしもデメリットになるわけではないのだ。
「サンクション=デメリット」の関係は固定的ではなく、サンクションが加えられる主体とサンクションの内容との関係性によって、メリット・デメリットが変わってくる。そして、"サンクションが加えられる主体"は、そのルールの観念体系に属していない。したがって、「サンクションにより生じるデメリット」は"ルール"の観念体系外の要素を含む思考なのだ。言い換えると、外向的思考Teなのである。
以上から理解できるように、A2段階で観念体系外の要素を含むため、「A1-A2思考」全体で考えれば、「A1-A2思考」はTeとなる。
■教師の愚痴での思考Teと愚痴に対する違和感を感じた思考Ti
教師の見解では、上記の行動を取る生徒の思考は次のようなものだ。
校則破りのサンクションが教師の叱責のみなので生徒にとって小さなデメリットであり、就業規則破りのサンクションはアルバイト先の馘首などであるので生徒にとって金銭的損失が生じる大きなデメリットである。それゆえに、校則は破ってもよい一方で就業規則は遵守しなければならない。
前節でみたTeの在り方と同様であるので、この思考がTeであることは明らかだろう。
では、この教師の見解に対して違和感を感じた中学生当時の私の見解について見てみよう。当時の私の見解での生徒の思考は、前述のものと少し形を変えれば以下のようなものだ。
B1:各人の自由は正当な理由が無ければ制約されるべきではない
B2:ルールの存在理由は何かしらの不都合防止である
B3:防止する不都合を根拠にルールの各人の自由への制約が正当化される
B4:正当化条件を満たしたルールは従うべきだが、満たしていないルールは従うも従わないも自由である
B5:アルバイト先においては長髪が不都合になる衛生要因が存在する
B6:頭髪についての就業規則は自由を制約する正当化条件を満たしている
B7:学校生活において長髪が不都合になる事態は特に見当たらない
B8:頭髪についての校則は自由を制約する正当化条件を満たしていない
B9:頭髪についての就業規則は従うべきだが、校則については従うも従わないも自由である
上記の一連の思考を分割して考察しよう。
まず、「B1~B4思考」に関してだが、これは自由やルールに関する観念体系に属する抽象的思考である。具体的な事柄に適用される以前に存在している、雛型としての自由やルールについての考えである。したがって、この部分は認識機能のN(直観)であるとも、Ti(内向的思考)であるともいえるだろう。
次に「B5思考およびB7思考」に関して、これは観察される事実についての思考と言っていいだろう。この部分に関しては、認識機能のS(感覚)であると考えられるだろう。とはいえ、認識機能のN(直観)でないとも断言できない。
"不都合"の観念に適合する事実があるかどうか照合しているとも言えるからだ。また、"不都合"の観念体系から判断しているのだとしてTi(内向的思考)と捉えてることもできるだろう。この部分に関しては、不都合についての実感が伴っているならばS(感覚)であると言えるだろうし、そのような実感抜きであるならばN(直観)やTi(内向的思考)であるといえるだろう。
「B6思考およびB8思考」に関してはTiである。B6思考についてはB3・B5から、B8思考についてはB3・B7から論理的に導き出される判断であるからだ。また、「B9思考」に関してもTiである。なぜならB9思考はB4・B6・B8から論理的に導き出せるからである。
以上の考察から、「B1-B9思考」全体はTiと言っていいだろう。B5およびB7において外部からの情報入力過程が存在するが、あくまでもその情報入力は観念体系の枠組みにおいて、外界の事実がどうであるかを認識しているに過ぎない。言ってみれば、B5とB7は現実が観念体系内に存在するパターンのどれであったかを確認する作業である。したがって、「B1-B9思考」全体としては、"ルール・自由"の観念体系内の思考から一歩も出ていないので、全体としてB1-B9思考はTiであるのだ。
さいごに
本稿での考察において心理機能に関して特に理解が深まったことを挙げるならば、脳筋思考―—「思考ステップ数1の思考」という判断機能―—が内向的思考Tiだということと言えるだろう。本稿以前において、外在的な基準すなわち常識や社会通念からの判断はTeであるように考えていた。しかし常識や社会通念と内容が共通することの多い単純で平凡な行動規範を持ち、規範と行動との間に思考ステップを挟まないような形で判断機能を用いているならば、それは判断機能としてTiを用いていることが明らかになった。
Tiに関しては重厚な思考過程が存在する判断機能である印象があり、また逆にTeに関しては重厚な思考過程になることもあれば軽薄な思考過程となる場合もある判断機能である印象があった。つまり、軽薄な思考過程を経るのはTeだけという印象を私は持っていた。
そんな訳なので言葉を選ばずにいえば、ESTPの第二機能がTiであるとされているのが不思議だったのだ。このタイプは良く評せば当意即妙で咄嗟の判断に優れるとも言えるのだが、「ノリと勢いだけで生きてないか?」とも感じていた。つまり、条件反射的判断をしていることが多いのに、なぜ長大な思考過程に基づく判断のTiが第二機能に来ているのだろうと疑問を抱いていた。
しかし、思考ステップ数自体はTiやTeの思考の種類に関係しないとの理解に至ったことで、「ノリと勢いだけで生きている」ようなタイプのTiの機能の在り方を掴むことができたのである。このことが、本稿での私個人の大きな収穫であった。
註
註1 この最初に挙げた説諭はわざと疑問を感じるような悪い説諭にしてある。それというのも、疑問を感じると人間は思考を働かせるようになるからだ。「なぜ引っ掛かりを感じたのだろう?」という気持ちから考える欲求が湧きおこる。人間のこの傾向をここでは悪用させてもらっている。
因みに「悪い説諭」と私が見做しているのは、幼児教育としてはこの説諭で用いている、物質的な意味での結果主義的な理屈の類で、子供を諭すことは望ましくないからだ。"悪いこと"に関する結果主義は子供の発達段階を逆行させてしまう。子供はその発達において「悪いことの認知」に関して結果主義的発想をする段階から意思主義的発想をする段階へと移行する。つまり、幼いうちは「物事の悪さは結果に比例する」と考えるのだが、成長するにつれ「物事の悪さは行為者の意思の邪悪さに比例する」と理解するようになる。ちょっと具体的に説明しよう。
A:親の手伝いをしようとしてお椀をひっくり返して味噌汁をテーブルにぶちまけた
B:イタズラで味噌汁をスプーンですくってテーブルの上に飛ばした
さて、結果主義的発想ではAとBのどちらの事例が悪いかといえば、BよりもAの結果が重大であるので「BよりAが悪い」となる。一方、意思主義的発想では、Aが善良な意思の(望まぬ)結果であるのに対してBは邪悪な意思の結果であるために「AよりBが悪い」となる。
親目線で子供のAとBの事例を見たとき、A・Bのどちらを「それは悪い事だ」と叱るだろうか。大半の親は、子供のBの行為に対しては「食べ物で遊んじゃダメでしょ!」と叱責しても、Aの行為に対しては「大丈夫だった?零した味噌汁掛かってない?熱いから気を付けなきゃダメだよ」と心配した上で注意するに留めるだろう。つまり、「悪い事」に関する通常の認知は原則的に意思主義に基づくのだ。
しかし、幼い子供は「BよりもAのほうが重大な結果なんだからAはBよりもずっとずっと悪いことだ」と認識する。それが成長するにつれて「行為の意図が邪悪な方が悪い事なんだ」と理解できるようになる。そしてそれによって、社会における「悪いこと」に関して正確に認知できるようになる。
この意思主義による「悪いこと」の認識は親による躾問題といった身近な範囲に留まらず、刑法の基本的思想にもなっている。例えば、傷害致死罪となるのか、より罪の重い殺人罪となるのかは、殺意の有無で決まる。被害者の死亡という結果は同じでも「相手を殺そう」との意思があったかどうかで罪の重さは変わるのだ。
もちろん、邪悪な意思が存在していなければ望ましくない結果となった行為が不問にされるといった事は無い。過失運転致死傷罪という犯罪類型を想起すれば理解できるように、邪悪な意思がなくとも望ましくない重大な結果を齎した過失を処罰する規定が(広義の)刑法には存在している。とはいえ、基本的に犯罪に対する処罰は意思主義的発想に基づいて定められている。
因みに、幼児の「悪いこと」に対する認知の発達に関して、親や周囲の人が従っている暗黙のルールを学習する結果身につけることなのか、発達により他人の意思というものを認識できるようになったため意思主義的発想が出来るのようなるためなのか、そのどちらなのか発達心理学は専門外なので私は知らない。詳しい人がいたらコメント欄でコッソリと教えて欲しい。
註2 あまり定かではない私の記憶によれば上記の例は宗田理の小説に登場する教師の愚痴で語られた話である(別の作家の作品でのワンシーンかもしれない)。宗田理といえば『ぼくらの7日間戦争』で有名な作家だが、ほぼ同時代の有名な映画に『ホームアローン』がある。また『クレヨンしんちゃん』や『名探偵コナン』といった現役の長期アニメの原作漫画の連載が始まったのも、この時代である。つまり、当時は世界的に「マヌケな大人vsイタズラ小僧」といった図式が持てはやされた時代精神があった。まぁ、20世紀中頃に江戸川乱歩の『少年探偵団』シリーズやアストリッド・リンドグレーン『長靴下のピッピ』シリーズなどの大人顔負けに子供が大活躍する物語が流行しているので、この手の「バカな大人を遣り込める子供」というモチーフはある一定のサイクルで流行するものなのかもしれない。更に言えば、このモチーフは昔から存在しているともいえる。何といっても、童話の『裸の王様』で王様が裸だと指摘したのは子供であったことを思い起こせばそのことがすぐ分かるだろう。
註3 もっとも大人の視点では、90年代に問題となり廃止が相次いだ、短髪にすべしと定めた頭髪についての校則が制定された理由もある程度見当がつく。各家庭に風呂があるのが当たり前になった現在では想像しにくいが、かつては銭湯を利用するのが普通であり、当然ながら毎日利用するものではなかった。また、かつての銭湯では女性が洗髪する場合に洗髪料金が発生する等の事情もあって女性の洗髪の頻度がかなり低い状況にあった。また、終戦直後の映像で児童らの頭にDDTを噴霧している映像があることから窺えるように学校という集団生活においてシラミ問題が存在した。そのような時代背景を考えると、衛生要因から男子の丸刈りや女子のおかっぱといった髪型指定が校則に存在したことが理解できる。もっとも、そういった衛生要因が存在した時代の校則が、それらの衛生要因が無くなった時点でも廃止されなかったことは、学校側の怠慢であるとは思う。
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