初めてのパリで アンドレ・プットマンから教えていただいたインテリア
活気があった一つの時代80年代から90年代
私の1987年からの長いインテリアの仕事で特に多忙だった20年間で
最初の大きな転機は1990年、パリとミラノ出張での経験。
そのたった1週間で、多くの出会い、発見、刺激、感動があり、ずっと今も色々な場面で役に立っている。
アンドレ・プットマン Andree Putman との出会い。
私はCassina Japan に転職しショールームでリテール営業と兼務していた企画
’チーフコーディネーターMD VMD’としての仕事で、出張した。(この仕事のことは追々)初のパリーミラノ出張は未だ学ぶ立場で、同行者として。
パリのエカール社での会議に同席し(この会議中に出たパンとカフェオレが美味しく、そもそも会議中に食事ができることに驚いた)
アンドレ・プットマンご本人から、ショールームをご案内いただき、ランチまでご一緒した。プットマンとお食事、感激だった。
パリはミラノに行く前日1日だけで、ほぼパリ観光などできずエカール社だけで終わったが、濃密なすばらしい時間だった。
見せていただいた家具や照明器具などは実に美しく、
それらは当時プットマンさんが力を注いでいた一つ、リスペクトする過去のデザイナーのものを後世に遺したいという ’復刻’ プロデュース。
アイリーン・グレイ Eileen Gray
ジャン=ミッシエル・フランク Jean-Michel Frank
マリアノ・フォルチュニー Mariano Fortuny
など、
初めて見る本物のすごさ感動に心震えた。
たかが家具、たかがデザインではない。そこに宿る魂あらゆる創造的なすべて、人が創り出した価値。
パリから翌日ミラノに向かった。(ミラノも感動的な体験の旅となった。前後していますが引き続き書いていきます)
アンドレ・プットマンさんと会うのは2度目だった。
一回めは、六本木の私がいた Cassina Japan ショールームで。デスクワークをしていたら、
「灰皿を貸してくださる?」と英語で低い声が聞こえた。見上げたらプットマンさんがタバコを持って立っていた。(ジタンのタバコだろう)
憧れのデザイナーだったから、また何故日本に?と驚き、着ている服のセンスや仕草、笑み、その佇まいすべてに感激した。
そして、パリ出張の翌年、日本でアンドレ・プットマンの新作家具 rue du bac ルードバック シリーズを、
Cassina Japan創業者の武藤社長がプットマン と当時プットマンのデザイン権利を持つアッシュアドゥHA2 とプロデュースし創った。
私は MD VMD担当として開発の一端に関わった。
その、アンドレ・プットマン rue du bac ルードバック新作発表会があり、
私は、そのイベントまで担当した。
プットマンのオフィスから届く図面や資料の商品を手配し、レイアウト設置し、装飾は私が考えることになった。私にとって大仕事だった。
家具はプットマンの指示通りに図面を細かく見てミリ単位までチェックして。
自分が任され拘ったのは、間接照明、照度やライトの方向や、飾る花。
花は、プットマンのイメージ白
カサブランカなどシンプルにした。
プットマンからダメ出しされるのではと緊張したが、すべてOKをいただいた。
大物は、準備段階では非常に細かく指示してくるが、いざ始まったら、文句や批判などしない、ということも学んだ。
アンドレ・プットマンさんが日本でも多く活躍されていたこの時期、90年代、
何度もお会いできた。貴重な体験。
溢れる情報よりも、自分の目で見たり経験したことは大きく、生き続ける。
私のささやかな人生で大きな転機となった1990年5月のすてきな体験の一つ。
プットマンは晩年最後の回顧展を、パリ市庁舎で無料で開放したことまで通じ、一貫していた信念を尊敬する。カッコよくユーモアもあり優しくてかっこよかった。
プットマンのことは今後も書いていきます。
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大昔のことから辿って備忘録として昔話を書いていますが、
時代は変わるけれど、何かを知りたいとき歴史(というと大袈裟だけど)過去のこと経緯を知ることは大切だと私は思っています、温故知新。情報ではなく体験談。ほんとうのこと。
小さな私の大きな人たちとの関わりや体験話が少しでもどなたかのご参考になれば幸いです。