本日の一曲 vol.331 ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲第23番 (Giovanni Battista Viotti: Violin Concerto No.23, 1792)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti)さんは、1755年5月12日、現在のイタリアにあったサルデーニャ王国のフォンタネット・ポー(トリノの北東約40キロ)で生まれ、先日ご紹介したフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler)さんの「前奏曲とアレグロ(Praeludium and Allegro)」の作曲者とされていたガエターノ・プニャーニ(Gaetano Pugnani)さんの弟子になり、ヴァイオリンや指揮法などの音楽教育を受けました。プニャーニさんは、トリノ王宮に仕えていましたが、おそらく1773年ころ、ヴィオッティさんもトリノでヴァイオリニストとしてデビューしました。
その後、ヴィオッティさんは、1782年にフランス革命前夜のヴェルサイユに行き、マリー・アントワネットに仕えました。このころ、ヴィオッティさんは、ヴァイオリンの教師として、ピエール・ローデ(Pierre Rode)さんをお弟子さんにしていました。
1789年1月にマリー・アントワネットお抱えの美容師であったレナール・オーティエ(Léonard Autié)とともにムッシュー歌劇場(Théâtre de Monsieur)を設立しました。しかし、同年7月14日のバスティーユ襲撃が始まりとされるフランス革命が進展すると、王室に仕えていたヴィオッティさんの身も危なくなってきたため、1792年ロンドンに渡りました。
ロンドンでは、1793年2月7日、ヨゼフ・ハイドン(Josef Haydn)さんのザロモン交響曲で有名なヨハン・ペーター・ザロモン(Johann Peter Salomon)さんが興行していたコンサートにヴァイオリニストとして出演して成功し、以後、ロンドンでのハイドンさんの演奏会にメインのソリストとして出演していたのでした。
しかし、フランス革命戦争(1792~1802)の最中であったため、ヴィオッティさんは、イギリス政府からジャコバン派との通謀を疑われて国外退去を命ぜられ、イギリスから追放されてしまいます。ただ、この追放は、ヴィオッティさんのライバル一派による陰謀だったらしく、すぐにヴィオッティさんはイギリスに戻り、1811年にはイギリス国籍を取得しました。
それから、ヴィオッティさんは、1813年にロンドン・フィルハーモニー協会の創設者となったり、1819年から1821年までパリ・オペラ座の王立音楽アカデミーの音楽監督を務めたりし、1823年にロンドンに戻った後、1824年3月3日にロンドンで亡くなったのでした。
ヴィオッティさんが作曲したヴァイオリン協奏曲は29曲あると言われていますが、この中で有名なのは1792年に作曲したとされる第22番と第23番です。第22番の方は有名なヴァイオリニストがしばしば演目にとりあげ、録音もいくつかあるのですが、第23番の方はあまり録音はありません。ただ、ヴァイオリン初学者が課題として与えられる曲なので、ヴァイオリニストの中では有名な曲です。時期的には、ハイドンさん、モーツァルトさんなどが活躍していた時期ですので、作風としては古典派の作風になります。
2005年にイタリアのヴァイオリニストであるフランコ・メッツェーナ(Franco Mezzena)さんがヴィオッティさんの29曲のヴァイオリン協奏曲を全曲録音しましたので、そこから第23番ト長調(Violin Concerto No.23 G Dur)の演奏です。オーケストラは、シンフォニア・ペルジナ(Symphonia Perusina)です。
その後、イタリアのヴァイオリニストであるグイド・リモンダ(Guido Rimonda)さんが全曲録音に取り組んでいます。
もう一つ、NAXOSレーベルからの録音もあります。ソリストはマウロ・ラニエリ(Mauro Ranieri)という人です。
(by R)