竹輪から見えた先の世界
「竹輪とキュウリで和え物が美味しかったから」と母は作り方を話し続けた」久びりに電話で話をしていた時のこと。
途中で私は「あ、ごめん、竹輪は手に入らないから」
母「えっ、竹輪ないの?」
子供の私は、初めてテーブルに並んだ竹輪を手に取った。穴があるのがとても不思議な食べ物だ。竹輪をのぞき込むと、狭い空間の先にはとてつもなく広い世界が広がっているように私には思えた。
また片方から空気を送ると穴の先からは、自分の温かい吐息が感じられた。
子供の頃に自分と自分の先にある世界を繋げている竹輪が特別だったのに大人になると当たり前の食べ物になっていく。
袋を開けて手でちぎり、ワサビしょう油で食べると魚の香りが口の中にじわっと広がる、そしてワサビの香りも。
竹輪にキュウリを入れて切り、お皿に並べるとおつまみになる。
冬の寒い時におでんに入れるのも私は好きだ。グツグツ煮込んだ中で竹輪はちょっとプクッとふくれっ面になる。菜箸で少し取り口の傍まで運ぶと、おでん汁の染みた少しうわっとした竹輪になる。
いろんな表情を持つ竹輪を見てきた。会社員時代は、冷蔵庫には竹輪が必ず入っていておかずを作るのが面倒という時に、竹輪はスターとなる。お弁当のおかずもあまりない時にフライパンで少し暖めお醤油をかければ立派なおかずにもなる。
でも容易に手に入っていた竹輪がこのオーストラリアでは手に入らない。
いつもあるもの、または手に入るものを私たちは当たり前と思っている。
当たり前が当たり前じゃなくなった時に
初めて当たり前だった時のことを思い出す。そして感謝の気持ちが湧いてくる。
もちろん竹輪に限ったことではなくて、私たちの身の回りの当たり前の中によくあることだ。
簡単に買うことができなくなった竹輪が当たり前ではなくなって初めて竹輪と過ごした時間を懐かしく思い出した