ハイパー能「長髄彦(ながすねひこ)」〜奈良県民のヒーロ「忍性」(1)〜
最後に神武に抵抗した長髄彦。その前に倒れた戦士、葛城邑(かつらぎのむら)を支配していた赤銅八十梟師(あかがねのやそたける)に並んで抵抗していたのが、磯成八十梟師(しきのやそたける)。磯成(しき)は、後に「城下」と書いて「しき」と読ませました。ここには弥生時代からの環濠集落があります。
鎌倉時代、この城下(しき)に生まれたのが忍性(にんしょう 1217〜1303)。真言律宗の僧。厳格な戒律を守り、貧しい人々、そしてハンセン氏病の患者の救済活動を行ないました。彼にとって出家をすることは、知識を積む「学僧」になることでも、地位を昇りつめて政治力を持つ僧侶になることでもありませんでした。
忍性は15歳に母を亡くす時、母の願いもあって出家します。16歳のとき、行基(668〜749)の人生を自らの理想の僧の姿と決め、行基の墓のある竹林寺に出向き「菩薩行」を重ねます。行基は当時、民衆に仏教の布教を禁止していた朝廷を無視し、仏教を説き仏教帰依(信仰)した人々と共に、住む場所のない人々の宿泊施設、治水、灌漑の社会事業を指導しながら日本国内を行脚しました。
この竹林寺こそ生駒にあるお寺なのです。しかし生駒で育っていながら、一度も行ったことがありませんでした。聞いたこともなかったです。行基の墓があるとガイドブックに書いてあったので、改めて竹林寺を訪ねた時、忍性の墓を見つけ、身が震えた覚えがあります。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、復興したのが1997年。誰も訪ねる人のいない寺。どうして困窮する人々を救った日本の代表的二大人物の眠る寺は、歴史から置き去りにされたのだろう?
天台声明をやっている者にとって「竹林寺」という名は、忘れることがありません。天台声明を日本に伝えた円仁(794〜864)が、840年5月1日、ついに念願の五台山にたどりつき、竹林寺で五会念仏(ごえねんぶつ)を学びました。この五会念仏の声明を私たちは、毎年7月イスラエル軍の侵攻で命を落としたパレスチナの人々のために「ガザ法要」を修し、唱えています。今年は7月9日(日)です。円仁がたどり着いた頃の五台山は、現在進行形で「文殊菩薩が降りて来る」神秘の聖山でした。円仁が五台山で聞いた「文殊菩薩の平等の精神」
円仁が五台山にいた840年には、行基はすでに没しています。竹林寺という名は行基の眠るところとして後から付けられたのかもしれません。人々は行基を「文殊菩薩の化身」としました。文殊菩薩は貧しい人々に慈悲を与える象徴だったから。忍性は、行基、文殊菩薩に惹かれていきます。生駒の竹林寺の本尊はもちろん獅子に乗った文殊菩薩。
19歳のとき、7日間の断食を3回行い、文殊菩薩の真言「阿(あ)、囉(ら)、跛(は)、者(しゃ)、曩(のう)(a-ra-pa-ca-na)」を50万回唱えます。50万回ってどんな?と思われるあなたに。チベットでは文殊師利菩薩の信仰はいまだ盛んで、文殊菩薩「Om A Ra Pa Ca Na Dhih」のマントラ(真言)を1時間唱えているYou Tubeをご紹介しておきます。
忍性の文殊菩薩への信仰は揺るぎなきものになってゆきます。
<つづく>
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