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詩を閉じ込められる檻はない

 「カラマーゾフの兄弟」を3ヶ月かけて読み終え、その長編の深く、重く、暗く、人間の心をえぐる描写に「ロシア文学鬱」にかかった直後に、詩の本が届いた。

 「詩の檻はない」。アフガニスタン政府は、検閲を強化し詩の表現活動を制限したことに抗議をする詩集を出そうとアフガニスタン出身、オランダ在住の詩人、ソマイヤ・ラミッシュは、世界中の詩人に呼びかけた。そこに100人以上の詩人たちが、詩の禁止と検閲に対する抗議の詩を集まった。日本語訳の「詩の檻はない」は、36人の日本人、20人のその他の国の詩人、そして発起人であるソマイア・ラミシュの詩が収められた。

 ラジオ・ガーデンという世界中のFM局の音楽が聴けるアプリがあり、よくカブールのFM局に合わせていたことがある。イスラームを厳格に守る人々にとって音楽はハラーム(禁忌)。サウジアラビアなどはそうだ。アフガニスタンは、FM局を聞いている限りでは、詩の朗読?(とにかく何かを朗読している)、そこにウードがバック・ミュージックで流れて「い〜じゃ〜ん」という感じで気に入った放送局だった。それが、2021年ターリバーンがアフガニスタンを制圧してから「シャー」という音だけで、放送されなくなった。今はどうかと久々にチューンを合わせてみると、ジャズ、ポップスとなぜか「アメリカの音楽」が流れる。そしてクルアーンの朗唱。事情は深そうだ。言語は、パシュトゥー語で、ペルシャ語を聞いていれば、その系統の言語の響きだなぁとつくづく思う。

 「詩の檻はない」に戻ろう。岡和田晃の「民主主義の死」は、何とも歯切れの良い詩。もの言わぬ日本人に怒りを込めた思いが、アフガニスタンへの抗議へと繋がっている。こんな切れ味の良さに、白井聡の「国体論 菊と星条旗」を一挙に読んだ時の清々しさを思い出す。

 そこから佐川亜紀の「女たちの言葉は水路」、恣意セシル「生活」、高柴三聞「叫び」、高野吾朗「蟹」と読み進んでいくうちに、日本人の詩が、なぜかペルシャの詩人たちに守護されているような思いに浸る。ハーフェイズの詩集、オマル・ハイヤームの「ルバーイヤート」、サアディーの「ゴレスターン」が、日本語の字を目で追いつつも思い出される。詩の禁止に筆を取った詩人たちを守護する聖人たちの声が聞こえて涙に溢れる。

 そして高細玄一の「詩と共に」に至って、ペルシャの詩人たちの霊の叫びが、彼の詩に降りてきたようなフレーズ「そのことをどうやって記憶に留めよう 写真だけではない人の生き方を 詩を書かずに どうやって留めよう」

 さらに続く谷脇クリタ「私は歌、私は詩」、津川エリコ「アタカマ砂漠で骨を捜す女たち」、二条千河「虹彩」、葉山美玖「澄んだ湖」、ゆずりはずみれ「水辺」と秀逸な詩が続く。それは、「抗議」の「叫び」が詩となって表されている。ではもう一度、岡和田晃の訴えを考えてみよう。日本の詩人は今の日本の社会に対し「抗議」の「叫び」を詩に込めているのか?と問う私にブーメランが飛ぶ。日本人の表現者、(エンターテイナーではなく)アーティストは、今、何を表現しているのだ!と。

 さらに読み進めていくと、まるで万葉集を読み親しんでいるような詩に出会(くわ)した。「あ〜万葉集好きな人なんだ」と思ったら、「詩を閉じ込められる檻はない」という言葉に、ふと詩人の名を確かめると、セシル・ウムアニ、フランスの詩人だった。ここからは海外の詩人の作品だ。デビッド・ボロコの詩は、ナイジェリアの紛争の中で生きる詩人の生々しさが伝わってくる。これは日本人には書けない。

 ファテメ・エクサルの詩も自由を失われたイランの女性の叫びが、アフガニスタンの詩の禁止への連帯へと繋がっている。それぞれの国で、「なぜ自由に生きられないのか?」という歯痒さが詩を屈折させ、イメージを跳躍させ、複雑な精神のありようを伝える。

 私が名前をあげなかった詩人の作品は、まだまだ私が理解するには時間を要するものだからである。

 「カラマーゾフの兄弟」が3ヶ月、「詩の檻はない」が1日で読み終えたとしても、それは容易に読めるからではない。解ききれない思いを残しながら読み進めつつ、しかし、詩人の叫びは、ドストエフスキーという小説家よりも、音楽を作る者に近いある種の直感を掴み取る感性に、私の心が共感している。詩は紙の上の文字から音楽の予感がする。詩集は音楽が流れるように読め、聞こえてくる。それはイスラームにとってハラーム(禁忌)だというのか?

「正義の都市国家の守護者たちは 詩の一節を反乱に等しいと見なすー厳密に言えば、確かに、詩は政府を倒すことができる」

クリストファー・メリル

「宗教や民族性に覆い隠されていても 不正は、正義たり得ないと語ることを邪魔されない。私たちが見たこと、感じたことは 正しくないと主張する私たちの想像力を 宗教が閉ざすことはできない」

デビッド・ボロコ

 ついこの間、パレスチナ人たちが、ペルシャの詩人、ジャラール・ウッディーン・ルーミや、イブン・アブニーの言葉から、アッラーの神を讃える歌を歌っているのを見つけて感動したばかりだ。

 ターリバーンたちの聴いている音楽とは、どんなものなのだろうか?

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