ハイパー能「長髄彦(ながすねひこ)」〜奈良県民のヒーロ「忍性」(2)〜
忍性(にんしょう 1217〜1303)は22歳、当時の乱れた僧侶たちの破戒を正し、戒律を復興して真言律宗を興した叡尊(えいそん1201-1290)の弟子となります。
そして1243年26歳、忍性は奈良坂を登きったところに北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ)というハンセン氏病の人々の治療院を建てました。「元享釈書(げんこうしゃくしょ 鎌倉時代に書かれた日本最古の仏教通史)」の1332年の項に、忍性のことが書かれています。
奈良坂を登り、北山十八間戸を過ぎると般若寺があります。現在は「コスモス寺」として知られているが、ここに薬草が育てられていたことは想像に難くありません。さらに西へと足を伸ばすと奈良豆比古(ならつひこ)神社があります。ここが翁の発祥の地です。天智天皇の第七皇子であった志貴皇子(しきおうじ)。その志貴皇子の第二皇子(次男)の春日王(かすがのおう)は癩病を患いました。さらにその春日王の二人の息子、浄人(きよひと)王、安貴(あきひと)王は、熱心に父の看病をしました。浄人王は、俳優(わざおぎ)が得意だったので、春日大社で父の当病平癒を願って神楽を舞いました。すると春日王は回復へと向かったのです。
奈良豆比古神社の翁から「マンハッタン翁」は生まれました。
奈良坂は私の作品を生み出すブラック・ホールです。汲んでも汲みきれない多くの人々の思いがここにはあります。
1267年42歳、忍性は北条重時に請われ、鎌倉に入ります。死体が遺棄され、行き場を失った者たちが集まり「地獄谷」と呼ばれていた場所に、聖徳太子が考案した厚生施設「敬田院(仏教道場)、悲田院(貧窮者、孤児、老人を収容する)、施薬院(薬を施す)、療病院(病人を収容する)」に倣(なら)い
寮病院…病人を収容する施設
悲田院…身寄りのない者、老人を収容する施設
福田院…孤児、寡婦、廃失者(身体に障害を伴う人)を収容する施設
癩宿…癩病患者を収容する施設
を建て、その一帯を「極楽寺」と名付けました。
1294年77歳には、聖徳太子の建てた四天王寺別当(長官のこと)に任命され、悲田院、敬田院を復興し、「極楽浄土への道」と言われ、多くの貧者、病者、乞食、非人が集まる四天王寺西門に石の鳥居を築造しました。四天王寺西門から春分の日には、きれいに日没を見ることができます。
忍性は、師の叡尊から「慈悲ガ過ギタ」と苦言されるほど、学業を疎かにし、ひたすら貧しい人々の救済に生涯を送ったと言われています。ハイパー能「長髄彦」では長髄彦も忍性も夜明けと共に消える、という能のお約束をぶち破り、現世に生き返ります。
2023年度の国家予算では、軍事費は4,8兆円も増えます。今後5年間で2倍に増やすのだそうです。しかし、社会保障費は、1千500億円に伸びを抑え込んで6千億円。どうして社会保障をなおざりにするのか!忍性は目覚めなければならない。クローニー・キャピタリズム(競争を排除して縁故者だけに利益を独占する資本主義)が蔓延し、被疑者たちは東京地検特捜部が動いても何とでもなると思っている、そんな彼らに、まつろわぬ民の代表でもある長髄彦は、鉄槌を下す。私の中にいる忍性、長髄彦。私の英雄、私の誇りを、今こそ目覚めさせなければなりません。
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