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映画『聲の形』/植野というキャラについて

映画『聲の形』がTV放映されたのをきっかけに、この作品について色々考えている。特に植野という「嫌われキャラ」について、改めて色々考えた。酷い扱いを受けたのに、硝子はなぜ植野にアプローチを続けたのだろうか。いろいろ考えたことについて、メモしておこうと思う。

#ネタバレあり

植野は主人公である将也の小学校の同級生。将也のことが好きで、硝子にはたびたび辛く当たる。彼女は色々なことを自分勝手に決めつける。人の意見を聞こうとしない。硝子が転校してこなければ、自分たちは幸せでいられたのだと本気で思っている。私も含めて多くの人は、彼女の勝手な思い込みに同意しかねる。将也がぎこちないながら硝子と友人関係を作っているときに「いじめていた奴と友達?むりむり!」「せいぜい友達ごっこしてろー」という言葉を浴びせる。おいおい、やめてくれ。私たちはそう思う。自殺を図った硝子に「ふざけるな」と本気でキレる。追い詰められている硝子に、なんてことするんだよ。私たちは植野の「鬼の所業」に腹を立て、心底あきれる。間違っても性格の良いキャラではない。でも、植野は硝子にとって特別な存在だ。何が特別なのか。それは、植野だけが硝子を「平等」に扱っている人なのだ。

ここで私は「平等」を「みんなに対して同じ対応をすること」という意味で使う。「公平」は「それぞれの違いによって対応を変えること」で「平等」とは違う。柔道が階級制なのは「平等」ではなく「公平」を期すため。そういう定義で「平等」と「公平」を使い分ける。

私たちは障害者に対して、無意識に「公平」であろうとする。障害者は私たちと違っている。だから平等ではまずいだろう。そう無意識に感じる。それはもちろん悪いことではない。でも公平は平等より難しい。「平等かどうかの感覚」については、私たちの中でかなり共通している。でも「公平かどうかの感覚」はバラバラだ。だから公平が必要だと思うと、過剰に寄り添ってしまったり、逆に関与を避けるようなことになりがちだ。

そういう中で、植野は特殊だ。耳が聞こえない硝子に対して、平等に付き合っている。それは小学校の頃から変わらない。合唱で硝子の歌声が「調子っぱずれ」だったとき「これ合唱コン、ヤバくない?」と文句を言う。教科書の朗読が下手なのに教師が甘い対応をすると、思わず小声で不満を言う。硝子は手話の方が楽でも、私は筆談の方が楽なのだ、と臆面もなく先生に言う。その姿は私たちには奇異に映る。そしてこう思う。
植野よ、そんなこと言うな。しょうがないじゃないか。だって彼女は耳が聞こえないのだから。
そこで私はハッとする。それをもし伝えたら、硝子はちょっと傷つくのではないだろうか。公平は必要なものだ。でも、それは「傷つけるもの」でもある。それを忘れてはいけない。

そして硝子にとって、植野の平等さは特別なものだった。硝子にとって植野の平等さは、ある意味必要なものだったのだと思う。硝子が自殺を試みたとき、その行為にたいして本気で怒ってくれる人が、彼女には必要だったはずだ。硝子は自殺をしようとして誰かを傷つけてしまった。それは彼女の重大な過失だ。そのとき、誰からも本気で責められなかったら、彼女の苦しみは深くなる一方だろう。もちろんあのときの植野は、硝子のことを思ってキレたんじゃない。硝子のことが「自分と同じ人間」として許せなかったのだ。平等に扱っているからこそ、あのキレ方ができたのだ。観覧車の中で硝子にキレたときもそうだ。私は私が嫌いです。そう言って自分の殻に逃げ込もうとする硝子。私たちはそれを見て、彼女の境遇ならしょうがない、と配慮する。でも植野はそんな配慮はしない。ふざけるな!私との話し合いに応じろよ!そう言ってキレる。そんな対応が植野にはできる。そして冷静に考えるなら、私は私が嫌いと言う態度、すぐに謝ってしまう態度は、硝子の抱えている「大きな問題」なのだ。

繰り返すが、植野はお世辞にも性格がいいとは言えない。私もきっと植野のことが苦手だろう。植野の肩を持つつもりもない。でも彼女の名誉のためにちゃんと言っておきたいことがある。誰にでもわかる障害を抱えた硝子に対してでさえも平等に振舞えるという植野の特性は、彼女を酷く生きづらくしている。損をしている。割を食っている。酷い奴だと思われている。自分でも自分のことを「やさしくないやつ」と感じて思い悩んでいるはずだ。でも、硝子にとって植野は、ある意味で救いなのだと思う。だから、わたしたちから見ると「ひどい扱い」を受けているのに、硝子は植野に対してアプローチを続ける。明らかに、他の人にたいするのとは違う「好意」を示している。硝子から見える植野は、私たちから見える植野とは、かなり違うタイプの人間なのだろう。
だから私たちは、自分以外の人間関係に口を出すのはとても難しい。それは単に「他人のことは分からない」と言う単純な話ではない。他者から見た他者。そこには2回他者が挟まっている。よっぽど注意しないと大きく見誤る。この作品の植野という「一見分かりやすい嫌われキャラ」から私が学んだことは、そういうことになるのだろう。

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