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アーレント『人間の条件』を読む#2/一旦プロローグに戻る

一度挫折したハンナ・アーレントの『人間の条件』を読み直しながら、思ったことや感じたことを書いておく。それだけの記事の2回目。
(※素人の感想なので、見当違いな解釈が多分に含まれます。ご注意を。)

●前回の反省から
前回、『人間の条件』を読む、の最初の記事を書いた。

そこで、最初の節「1.1 Vita Activa and the Human Condition」を読んだが、結局「Vita Activa(活動的生)」と「Human Condition(人間の条件)」の関係がピンとこなかった。それが主題の節なのに。要するに趣旨がまったくつかめていない、ということだ。私が陥った状態を簡単に書く。

●「Vita Acitiva」から「人間の条件」を考えるのはなぜ、と言う疑問
1.1節に書いてあったこと。「Vita Activa」は3つあって、それぞれが「人間の基本的条件」に対応している。はいはい。そこまではいい。しかしアーレントは難しいことを言い出す。「人間の条件」は「人間の基本的条件」より範囲が大きい。「基本条件」の方は、人間が生を与えられたときの、いわば初期条件だ。生そのものと世俗性と複数性。そういう条件で「人の生」というものはある。それに対して「人間の条件」の方には、初期条件以外にも「人間が作り出した条件」が含まれる。
言っていることはなんとなくはわかる。が、わざわざVita Activaという概念を導入して、人間の条件を考える理由が分からない。「Vita Activa」→「基本条件」は良い。でも「基本条件」→「人間の条件」には飛躍がある。この順で論を進める必要ある?
そう思いながら途中まで読み進めたが、よくわからない。「人間の条件」ではなく、基本条件に対応づいた「Vita Activaの話」になってゆく。それでいいのか?だったら最初から「「Vita Activa」と基本条件の話から始めればよかったのではないのか?つまり私は、この本でアーレントが何をしようとしているのか、が気になって議論についていけないのだ。ということで、プロローグに戻ることにした。というか、プロローグにそれっぽいことが書いてあることに「ようやく」気づいたのだ。最初にプロローグを読んだ時、私は適当に読み飛ばしていたのだろうか。

●プロローグの要旨
近代の特徴は、「人間の条件から脱出したいという欲望」と「それに実現性を与える科学の発展」だ。人類初の人工衛星(スプートニク1号)の打ち上げに成功したとき、人々の反応は「人間ってスゲー!」ではなく、「人間が地球から解き放たれる第一歩だ」だった。人間は元来「人間の条件」から脱出したいという欲望を持っている。そして近代はそれを超えられる力を手にしようとしている時代だ。それを超えるか否か、その判断が「単数者の真理」を追う科学者にゆだねられてしまっている。そのため「複数者による相互の意味づけ」がなされない。意味づけされないまま見切り発車されてしまう脅威。それが近代の特徴だ。と、ここまではとても分かりやすい話で、よく聞く話だ。でもここでアーレントは「面白い観点」の話に持ってゆく。

この脅威に匹敵する近代の脅威は、オートメーションだ。それはなぜか。近代の特徴は、社会全体が「労働社会」へと変貌を遂げたこと。オートメーションによる「労働からの解放」は、われわれに残された労働という意味の喪失、意味のみつけられない社会に向かう脅威なのだ。さらに悪いことに「労働社会」を別の社会に変えるような社会変革は労働ではできない。労働とはそういうものじゃない。それができるのは「政治的あるいは精神的な貴族制」なのだけど、それはもう失われている。この逆説的な状況は、これ以上悪い状況はあり得ない。それがアーレントの認識なのだ。そしてこの本の目指すところが示される。

What I propose in the following is a reconsideration of the human condition from the vantage point of our newest experiences and our most recent fears.
(本書で私が提案するのは、新たな経験と現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討すること。)

This, obviously, is a matter of thought, and thoughtlessness(略)seems to me among the outstanding characteristics of our time. What I propose, therefore, is very simple: it is nothing more than to think what we are doing.
(これは思考形式の問題だけど、思考欠如が私たちの時代の特徴だから、私の提案することは単純だ。「私たちが行っていること」だけを考えればいい。)

“What we are doing” is indeed the central theme of this book. It deals only with the most elementary articulations of the human condition, with those activities that traditionally, as well as according to current opinion, are within the range of every human being.
For this and other reasons, (略)the activity of thinking, is left out of these present considerations.
(「私たちが行っていること」が本書の中心テーマだ。今も昔もすべての人間に共通する活動を通して、人間の条件の最も基本的な明確化(the most elementary articulations)を試みる。その理由で、あるいは他の理由で「考える活動」は検討の対象外とする。)

Arendt, Hannah. The Human Condition: Second Edition (English Edition) (pp.5-6). The University of Chicago Press. Kindle 版.

「Vita Acitiva」から「人間の条件」を考える理由
プロローグを見て私が理解したのはこういうことだ。アーレントは近代以降の危機を目の当たりにして、まずは「人間の条件」を分析しようと考えた。それがスタートなのだ。Vita Acitvaから「人間の条件」にたどり着いたのではないのだ。
しかし「人間の条件」という、とても広い範囲の条件では扱うのが超絶難しいので、ある前提を置いた。まず、思考活動(activity of thinking)の条件を排除した。思考は自由度が高いので、その条件を考えることは超絶難しい。幸い近代は「思考欠如がとびぬけた特徴」なのだから、まぁ丁度良いだろう(すげー皮肉)。その上で、思考以外の活動を、通時的に分析しようとした。つまり、古代ギリシャの頃からずっと変わらない、人間の生に根本的な基本条件をベースにしようとした。だから、人間が生を受けたときの条件から始めるのが良いだろうという判断になったのだろう。

というところで2回目はおわり。次回に続く(たぶん)。

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