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映画「怪物」/とても悲しく美しい怪物映画
先日、自分の投稿したAmazonレビューがすべて消えてしまった。悲しいけど消すのはAmazonの自由だ。Yahoo映画に投稿したレビューもいつ消えてもおかしくない。それも消えてしまったら悲しいので、過去にYahoo映画に投稿した内容をNoteにも書いておく。(2023/7/7投稿内容の自分用備忘録)
ある人の虚像が作られ、それが怪物という姿になる構造についていろいろ深く考えさせる映画でした。
●秘密が作り出す虚像
ミナトにとって「ヨリへの気持ち」が「秘密」となって、周囲の人には彼の行動原理がわからなくなり、そこに虚像が生まれる。これは校長先生と同じ構造だ。彼女も秘密によって謎をまとった人物となり「虚像を生み出すコア」のような存在となる。二人がホルンとトロンボーンで出す音は、最初は「怪物の声」に聞こえる。でも、終盤でそれが「二人の心の叫び」であることがわかる。このシーンは涙があふれてくる。悪い魔法使いによって怪物に変身されてしまった人の叫び声。それはとても悲しくてとても美しい。
●負い目という秘密
母親のさおりの場合は「親としてのミナトへの負い目」が「秘密」として機能している。「夫を良い父親だったと思えない」という負い目だ。ただ、これは「自分に対する自分の秘密」で、ミナトにはバレている。とても拗れた秘密で、でも実は私たちの周りでとてもよく目にするタイプの「秘密」なのかもしれない。自分のことが一番わからないのだ。とにかくこの秘密のせいで、彼女は実態以上に「やばい人」にも見えてしまう。
●純粋さが作り出す虚像
保利先生といじめられっ子のヨリは、純粋な人として描かれる。もちろん単純に純粋なだけではないが、コアにあるのは純粋性だろう。純粋じゃない私たちの多くは「気づくと矛盾した行動をして自分に言い訳をする」つまり「自分をだまし続ける」という深い苦しみを抱えている。でも純粋な人はその苦しみを知らない。そんな不公平を私たちは簡単に受け入れられない。だから私たちの多くは彼らを「あるがまま」には受け入れられない。そこに虚像が作り出される。純粋なものを受け入れるには「ある種の資格」が必要なのだろう。ヨリの父親には残念ながらその資格はなく、悪いことに彼はそれに気づいてしまった。豚の脳というのは、本当は彼が自分に浴びせた罵倒だろう。
●怪物を求める心理
なぜ虚像が怪物という形をとるのか。もちろん「人はわかりやすい善悪対立が好きだから怪物(=悪者)を作ってしまう」という面もあるだろう。でもこの作品を見て強く思ったのは「怪物へのあこがれ」とでも呼ぶべきものだ。私たちの心には、恐ろしいものを見たくない気持ちの裏側に隠れて「見たい心理」が働いている。それはある種の「憧れ」のようなもので、虚像を怪物側に寄せていく。そしてもしかしたら、その怪物が「本当は怪物ではなく私たちと一緒だった、という驚きと悲しみ」まで込みで、「私たちの救いの物語」としてあこがれているのかもしれない。
私の感想をまとめるとこうだ。
私たちは「理解できない人」に虚像を作り「隠れた憧れ」のようなものを投影してしまう。それはしばしば「怪物」という姿をとる。でもその「怪物を作り出してしまう悲しい性(さが)」のようなものも含めて、とても悲しく美しい。そういう美しさを描き出しすことに成功している映画なのだろうと思う。