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Letter10 社会人一年目〜初めての社会人に戸惑う私へ〜

大学を卒業して実家に戻った。

私の職場は県庁所在地である私の地元に本社が、

そこから70k m離れた県南部に支社があった。


面接の時、間違いなく本社勤務になるだろうと言われていた。

自宅からは車で30分。

大学は一時間かかっていたので、

少しゆっくりできると思っていた。


しかし・・・


自宅に届いた採用通知には、

”支社勤務″の文字。


目を疑った。

実家からは70k m。

どうやって通うのか・・・?

電車は一時間に一本と言う田舎だった。

とりあえず、車で一時間半かけて通いながら、部屋を探すことにした。


そうして想像以上に慌ただしく過ごしながら

入社式を迎えた。


同期は10人いた。

ほとんどが一般職で、私のような医療職は4人だった。

年齢も21歳から32才と様々だった。


広い本社を見学し、それぞれの部署について部長から説明があった。

一日中各部署の説明。会社の成り立ち。

どの部署の部長も、課長も、仕事に熱かった。

誇りと情熱を持っていた。

同期と「すごいね」と関心した。


同期で支社勤務は私だけだった。

なぜそうなったのかは全くわからなかった。

後から聞いてみたら、支社勤務の放射線技師が一人辞めて人手が足りなくなってしまったとのことだった。


研修は2週間続いた。

外部でのマナー講習、名刺の渡し方など、医療職ではほとんど触れる機会のないようなことだった。

そんな緊張の日々を一緒に過ごすと、同期とはすぐに打ち解けた。

同期と毎日一緒にいたのはたった2週間。

その後も、私が同期と一緒に働くことは全くなかった。

それでも、いつ会っても、毎日会っていたように会話ができた。


研修の中で、女性部長から言われた言葉があった。

「この同期は一生同期。たとえ誰かが辞めても、いなくなっても、同期は一生同期。」

この言葉は、10年たった今も、

心に刻まれている。



研修が終わると、それぞれの部署へ配属となる。

私は片道70k mの道のりを運転して自分の所属先である支社に行った。

当時は、他の職員も皆、遠距離の車通勤だった。


放射線技師は全員で10名程いたが、常勤の女性技師は私の他に一人だった。

その先輩が私の指導係となった。

年齢は私より9歳上で、当時の私から見るとベテランだった。


撮影の仕方、読影の仕方、言葉づかい、お客様への気遣い・・・

覚えることだらけだった。

一度聞いたことはもう聞かないようにしようと思っていた。


一見、何気なく撮っているレントゲン写真も、実はかなり細かい規定がある。

左右対称か、横隔膜は下がっているか、肺野は欠けていないか、乳房の高さは合っているか、皺はないか、筋肉の写り方、撮影濃度は適切か・・・

上げるとキリがない。

放射線技師は、患者さんが入ってきた時点で、大体の骨のラインと体格を見極め、考えながら身体とカメラの位置を合わせる。そして、必要に応じて線量を調整し、写真を撮る。数秒の中にその全てが詰まっている。

CT、MRI、胃部造影・・・

それぞれに、撮影方法があり、技師の技術で写り方が変わる。

かなり奥深い、職人的な仕事でもある。


私の指導係だった先輩は特にマンモグラフィーの技術が群を抜いており、読影医も唸る程だった。

正確で見やすい写真。

また、それを診る読影力もあった。

デジタル機器にもとても詳しかった。

そして、とても優しかった。

格好良かった。


先輩について、必死に仕事を覚えた。

周りの先輩たちからも

「すごく頑張ってるね」

と言われた。

もはや取り柄はそれしかないという感じだった。


患者さんと話すときの声のトーン、

話し方、抑揚、笑顔の作り方、

全くわからない。

普段からあまりテンションが高いタイプではない。

だからこそなおさら、

とにかく明るく笑顔で。

そう思って動いていた。

今思えば、新人感丸出しだった。

そんな私を、皆、娘や孫を見るように暖かく接してくれた。


必死な毎日。


ずっと抱えていた心のモヤモヤは、

小さなしこりになっていた。

頭の片隅にある小さなしこり。

それは消えることはなかった。













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ポテチ@サクラヒカル
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