音楽劇という名のポートレイト // The White Lounge
はじめに。
私は映画という形でThe White Loungeを観ました。
先入観を防ぐためにホワイトラウンジに関するインタビューやレポート等はほぼ読んでません。
(音楽劇ということ、Attitudeで踊っていること、脚本が大森さんではないこと、そして大体のセトリは知っていました。)
そのため本人の語る意図と違うことを言っている可能性があります。
推敲も出来ておらず書き殴りで支離滅裂ですが、受験勉強の隙間を縫って頑張って書いたので、よければ読んでくださるとうれしいです!
(⚠︎︎個人的な感想と考察です)
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*1.音楽劇でなければいけなかったワケ
圧倒的に「このままではMrs. GREEN APPLEは消費されてしまう」という危惧からなんだろうなと悟る。
ファンは増える一方で、本質が伝わっていないファンがいるのも事実。それは新旧とか関係なく、私は例外だと思っているわけでもなく。とにかく彼はそれを危惧している。流行病のように愛され飽きられていくこんな時代だから余計に。
だから曲を音楽劇という形として可視化することで、彼らの表現の幅を広げて深く掘り下げ、なんとか本質を伝えようとした。
誰かと意見を交わすことなく、個人対曲として向き合って欲しかったんだろうな。
という、理想論です。
本人がどう思ってるかは知らないけど私はそうであってほしいんだよ。Attitudeの頃のように、ミセスの音楽が消費されることへの怖さはあなたが1番感じていたんじゃないのか、、、。
ならばここで疑問。
何度も繰り返された「信頼している」という言葉。
本質が伝わっているファンがいるという意味で、大森元貴のやりたいことを受け止めて欲しいという意味で信頼していると言ったのかもしれない。
が、本質が伝わっていると思っているなら君を知らないやらAttitudeやらPARTYを失恋ソングやら超ハッピー人生賛歌やらにしないと思うんだよ。MVで表現されていることと全く違う演出をしないと思うんだよ、私は。
本当の意味で信頼しているのなら脚本は自分でやると思うんだけど。自分でも見つけられなかった曲の新しい面があると言っていたじゃないか。
FCの中にも本質が伝わっていないファンがいることは多分分かってるんだろうな。そんな気がした。
いつだかフェーズ2に入ってもなお焦燥感に駆られていることを明かされて驚いた。
''本当にミセスが好きなら、The White Loungeで曲の本質に迫るヒントを得て、その後新たに曲の本質を見抜いて欲しかった''のかなと思う。これは願望になってしまっているのかもしれないが。
だって本質伝わってない人いっぱいいるじゃん。
私だって分かってないと思う。だから考え続けてるよ。ずーっとずっと。そもそも本質とは何か?なんて誰にも分からないと思う。だからせめて本質に迫ろうとする行為が必要なんだと思う。たかが音楽、たかがバンドに、って思うかもしれない。そうではないのがこのバンドだろ。と思う。少なくとも私は本質に迫ろうと考え続けたことでしんどくもなったし世の中が嫌いになったけど、それ以上に人間が大好きになったし、自分も少し好きになれた。そのくらいの力があるのがMrs. GREEN APPLEなんだよな
だから私はせっかくFCにまで入るくらいファンなのに本質を見抜こうとしない人がいると残念に思う。
私が曲に込められた本質を見抜けているなんてちっとも思わない。思わないけど、17の子供が言えちゃうくらい曲を商品として見てる人いるもん。
本質を見抜こうとしていると必然的に自分と向き合わなくちゃいけなくなって、自然と個々人の人間性というのは高まると思うんだよな〜。
ほんとに曲聴いてたらそんなこと言えないと思うけどな〜って人結構いるじゃん。正直。
誰がどうとかではなく、主語を大きくするつもりもない。とりあえずVIP聴いてゾクッとするくらい自分の言動を見返すべきだと思うね。
モノ扱いしてどうするの。産み落とした子だよ。
貴方の意見を強める為の歌詞ではない。貴方の非を正当化する為の歌詞ではない。と思う
きっとこの音楽劇は曲が主役。
曲を演劇として、虚構から脚本を作り上げる意図は何か?と思うと、私は上記のことが浮かぶ。
単に大森さんがやりたかっただけかもしれないけども。やりたいなら脚本までやるんじゃないかな〜
ちょっと尖りました。ゴメンナサイ
私だってきっと例外では無いこと、分かってます。
嫌な気持ちになった方いたらごめんなさい
ホワと話ズレちゃいました。戻ります
*2.マスカレイドの意味
The White Loungeが歌われている間、ステージ上の全ての人物が仮面をつけていた。
仮面舞踏会、といった言葉でもよく知られているように、仮面にはその人の素性を隠したり、その人の見せかけの姿、すなわち虚構としての姿を映し出したりする意味合いが込められる。
この「独り達」は
この歌詞にもあるような、仮面で顔を隠して本心を偽る孤独な人たちのことで、
そんな中で本当は愛されたいと願う我儘とも言える矛盾を抱えた人達の集まる場所がこのThe White Loungeであるのかな、と思ったり。
イコールそんな貴方達(私たち観客)ですよとでも言いたげ。彼からの皮肉であり、ささやかな愛である。
それともどうだろう。
普段私たちが関わる人々は、必ずしも本心を見せている訳ではないのかもしれない。
見えている部分と見えていない部分。
その人の全てなんて一生理解出来ないのだ。
若井、藤澤が1曲目だけ仮面を付けていたように
彼らもまた、大森にとって「本当を見抜いて愛して欲しい」対象なのかもしれない。逆も然り。
Folktaleで、正反対の位置に座った大森と女性が同じ振り付けのダンスをしているが、その女性はマスカレイドを付けている。
#2 水と影 でFolktaleが演奏されていることから、目の前の女性は水に映った影、すなわち自分自身。
だから同じダンスを行っていた。(鏡合わせのダンスではないので多少説得力には欠けるが)
そんな自分はマスカレイドを付けている。
外側(影では無い方=大森)は仮面をつけていないけれど内側(影=女性)は仮面を付けているということは、心のどこかで本体に対して何かを偽る気持ちがあるのだろう。
自分が気持ちを偽っていることに気づいてないフリをして、水に映る自分の影や鏡に映る自分を見た時にはっと気付くような。(*7に繋がります)
私たちが目にしているものは見せかけの虚構に過ぎないかもしれない。
*3.ダンスホールに内在する空虚
「また君と踊れたらいいのに。そしたらどんなに幸せだろう。あの頃みたいに。」
そんなセリフでダンスホールは始まる。
が、軽快に歌われるわけではなく、文章として、心の内が手紙として読まれるように。
独白するように、自分に言い聞かせるように、苦しみを含みながら語られるのは
その様子はまるで、「君がいないから愛を知ることがもう出来ない」と、本来の歌詞とは真逆なことを歌っているように見えた。
映画を見る前、君を知らないとダンスホールが#3で一括りになっていることに疑問を覚えていたけど、見て納得。
君を知らないで自分から誰かが離れゆく苦しみを、ダンスホールではそれが故の新たな苦しみ(愛を知れないと実感する)を歌っているのだ、と。だから繋がってるんだ。
人は誰かと出会うからこそ愛を知れるという、結成当初から彼らの掲げてきたその思いは、ダンスホールにも現れていたのだと改めて実感した瞬間でした。
*4.消えない疑問
何に対する疑問か?言うまでもなくAttitudeです。
The White Loungeのネタバレ解禁後に多くのファンが困惑と怒りと悲しみを交えて口にした「Attitudeを、踊る?どうして、?」という言葉。私だってそう。だってそうじゃん。ファンや本人らが共に認めるほどにAttitudeって「神格化」されてるんだもん。
なぜか?
Utopiaの一曲目だったから。どうか曲に向き合って欲しいとコメント欄を封鎖していたから。Attitudeリリース時の大森は明らかに生き急いでいたから。MVで1人だけ、反対方向を向いている描写があるから。
何よりAttitudeというメッセージを受け取った瞬間、私は血の気が引く思いをしたから。
彼は明らかに音楽が「消費」されるのを恐れている
Attitudeはまさにそれを体現したものだった。
正直二度と歌わないと思った。
それが一番良いのだとも思ってた。
だからもう一度歌ったことだけでなく、踊られていることに驚いた。Soranjiのように踊らない選択肢だってあったはずだから。
「なぜ踊ったのか?」よりも先に、「この曲で踊ってよかったのか?」が来た気がする。
踊るという行為が悪いわけではないのだとは思う。そうだとしても、私はダンスを取り入れることによって聞き手の曲に対する意識が分散されてしまうと思っている。
ファンの目線を抜きにしても、本人たちにとってそんなポップで軽快な曲に昇華していいのか?とずっとずっともやもやしている。
だし、あの神格化されにされまくった重たい楽曲を踊るなんてこちらからしたらタブーと言っても過言ではないこと。ちなみに私はUtopiaのAttitudeやらTheaterやらは本当に聞けない。ライブビューイングで見て息止まると思ったよ。エデンとUtopiaのドキュメンタリーも何か相当なことがあるまで2度と観ないと思う。はい。
不満なのか疑問なのか分からない問いを抱え続けていても仕方ないので考えました。
ではなぜAttitideを踊ったのか。というと、
「曲の概念を壊してもう一度曲と向き合って欲しかったから」なのかな、と。
本当は考えたくはないけれど、おそらく彼はまた自身の曲の受け取られ方に焦燥感を覚えていて、「あのAttitudeを踊る?なぜ?」という疑問を''わざと抱かせた''のかな、と。
そうすることでまた曲と向き合わせるように誘導した。
それが、大森元貴がこの公演に仕掛けたトラップの核だったのかもしれない。
曲と再び向き合わせるために一種の裏切り行為のものが必要だったのかもしれない。
ある種の不信感を抱かせ、もう一度、聞かせる。考えさせる。疑わせる。
そこに重なる、「みんなを信用してるから」という大森の言葉。
ただ1つ確かなのは、Attitudeをあえて明るくしたことで、この曲の深みがより増したこと。
これが今のMrs. GREEN APPLEなのだ、と心から思ったから。そして大森は未だに愛されることを求めていて、孤独を感じ続けているということを、このポップな演出の裏側から読み取れたから。
本当は明るくないことを歌う曲をあえて明るくさせて、歌詞を読み込んだ人だけがその深さに気づけるという、ミセスの音楽の性格を体現したのだと思う。The White LoungeにおけるAttitudeが、まさに今のミセスのAttitudeなのだと。
それの良し悪しというのはわからない。
*5.大森元貴の''我儘''とは?
一つ目はThe White Loungeを行うこと。
バンドマンとして10年以上走り続けてきた彼らが音楽劇をする、というのは、「バンドとしてのMrs. GREEN APPLE」が好きな人々からしたら受け入れ難い部分はもちろんある。
私もネタバレ解禁後は理解が追いつかなかった。
言葉が非常に強いけれど、バンドを捨ててしまったのか、と。
まあ、AttitudeやPARTY、君を知らないが恋愛ソングへと変貌し、踊っていたからという全く個人的で傲慢な理由ですが。
あとは2人が同じサイドにいる、っていう、大森が主役としか思えないフォーメーション。
いや、わかる、曲を作ったのは大森だし大森がメインになるのも分からなくはない、けど、!
ってこれみんな思ってんのかな。気にしすぎか?
けれど頭を冷やし、冷静に映画を観て思った。
ホワイトラウンジは大森元貴の見ている世界の一部であるのだと。まあ曲が主役なら当たり前だけど。
演技をしたのはきっと「大森さんが1番自分を表現するため」に、そして「自身の楽曲に対し何も考えていない人にもそうで無い人にも何かしらのインスピレーションを与えるため」に最も手っ取り早い方法だったのだ、と。
Attitude「書き綴られた歌は私のそう、遺言」とあるように、腹を痛めて生み出された音楽は彼自身。
正確に言うなれば、音楽とは彼自身であり、彼の見る世界を映し出す鏡。
この舞台の主役は明らかに「曲」たちだった。
ひしひしと生命を灯す曲達には四肢が与えられ動き出していた。
曲を聞き流すだけでは気づけない、その曲の持つ様々なストーリーや多面性というのは演劇という形で可視化されるとよく見えるもの。もっと深く知って欲しいという思いも少なからずあるんだろうな。
というのは、この映画を観る前に思っていたこと。今も同じ思いだけれど、もう1つ、映画を観ながら彼の我儘とは何か、思い浮かんだことがある。
私の考える大森元貴の我儘の2つ目、それは、「愛されたいと思ってしまうこと」
本当になんの根拠もなくただの直感。
Just a FriendからAttitudeへ、AttitudeからPARTYへと曲が流れるにつれて、こんなに華やかな演出の中で歌われる愛や死生観というのは、そもそも人間の欲求である「愛されたい」を赤裸々に、ストレートにぶつけたものだと感じた。
「この人は愛されたいんだ。愛されているとわかっても愛されたいと思い続けてしまうんだ」
ということをどうしようもなく感じてしまった。
オムニバス形式のストーリーとはいえ、恋愛感情にまつわる内容がほとんど。恋愛感情というのは、そもそも誰かに愛されたいという我儘から生まれるものだと思ってる。相手からの愛無しに一方的に愛し続けるというのはなかなか難しいと思うので。
すごく抽象的な内容ではあるけれど、The White Loungeは音楽が主役であり、そこに内在する抽象的な感情たちがこのストーリーを形作っているのであながち間違いではないかもしれない。
*6.The White Loungeが行われた意味
彼の曲が愛されるのは彼が愛されるのと同じ。
だから深く知って欲しかった。
だけど届かないと危惧したから、可視化したこの異例としか言えないThe White Loungeを作り上げた。
The White Loungeは、彼の消費されてしまう恐怖と、可視化までしないと曲の本質に気付いてくれないという皮肉と、愛されたいという我儘と、大森元貴の全てが詰まったものなんだと思う。
「FCツアー''だからこそ''出来た。皆を信用している」
という言葉の意味も、今なら分かる。
彼の我儘はいつだってチームの主電源。
*7.Dearとの繋がり、虚構と虚無
The White LoungeとDearには共通点が3つある。
1つ目は扉(ドア)。
歌い出しの歌詞に扉(ドア)という共通点がある。
どちらもそれを''開ける''というのが鍵なよう。
2つ目はカバン。
The White Loungeでは白のアタッシュケース(無理くりですがカバンとします)と共に大森さんは登場し、そのアタッシュケースを置いて帰る。
Dearでは、MVで、女の子は花の積まれた車を追いかけるためにカバンを置き去りにする。
3つ目は手紙。
君を知らないとダンスホールのチャプターに付けられたタイトルは #3手紙(過去との対話)
Dearのシングルのジャケット写真はジャムで封をされた手紙。
これらの共通点から、DearのMVとホワイトラウンジには何かしらの繋がりがあるとして考えてみる。
このMV、生死に関すること以外の面でひとつ私なりの解釈があるので関連させて少し説明。
MVで、
華やかな車に乗る大森さんを追いかける女の子。
海辺で女の子を追いかける大森さん。
それはなんだか、華やかな姿をしているとき(ミセスとしての大森さん)はファンに追われる側だけど、そうじゃないときはただただ追う側でしかないのだという寂しさ、孤独感までもが表現されているのではないかと感じる。
これを踏まえると、#7虚構と虚無 と同じ何かを感じることができる。
#7虚構と虚無では、Feeling、ケセラセラ、Soranjiの3曲が歌われている。
他とは違う雰囲気を放つこの第7ブロック。
煌びやかな控え室で若井と藤澤は談笑。大森は鏡に映る自分をどこか不安定な面持ちで見つめている。
瞼を閉じ、新たなチャプターへ転換したことを表す効果音は、まるで大森がペルソナ(他人に見せる姿)を作り上げた瞬間のように思えた。
これは*2.で私が先述したFolktaleのペアダンスとなにか通づるものがあるのではないだろうか。
ブザー音が鳴り、「本番5分前です!スタンバイお願いします!」と声をかけられると3人は立ち上がり、ステージへ登場。
準えるように歌われるケセラセラ、華やかな演奏、煌々と輝く照明と演出。
歌い終わり、あっけなくステージセットは片付けられ、まるで用済みかのように薄暗くなるステージ。誰一人いない中で立ち尽くす大森。
さっきまであんなに人が居たのに。まるでリミナルスペースのような恐ろしさまでも感じる。
先程の華やかさと打って変わって孤独を抱えているようにも見える大森。
以前彼はこんなことを言っていたような気がする。
Mrs. GREEN APPLEはもはや国民的アーティストとなり彼らの音楽は更に拡散されていく。
本来それは彼にとって、達成することが確実であった目標なのだと思う。
その一方で、目標を達成したはずなのに、「消費されていく」感覚がどうも増えるんじゃないか。
そんな感情を抱えては楽しんでライブなんて出来ないから衣装やメイクという鎧を着てライブに出て、きっと本当に楽しいと思ってるんだろうけれど、ふとした瞬間に「何やってるんだろう」と思ってしまうんじゃないか。
なりたかったMrs. GREEN APPLEとしての姿なはずなのに、なってみたら別の感情が生まれてくる。
我儘なのか、必然なのか……
辿り着かないと見えない景色もあるだろうし、見たくなかったものもあるんだろう。その感覚というのは多分、大人の方がよく分かるんだと思う。
そもそも#7虚構と虚無のチャプターは異質だ。
他のセクションとは違い、明らかに「大森元貴」を体現したものだった。いわゆるカリカチュアなどではなく、自画像のような、なんの誇張もない今の彼の抱えるものなのだと思った。
これまでの曲たちは「曲が持つ」ストーリーであり、この3曲だけは「大森元貴」のストーリーだったように思えて仕方ない。伝わるだろうか、これ。
このチャプターを行うがために他の曲たちはあくまで全て導入であったと言われても納得がいくほどに、異質だった。孤独だった。
誰かによってもたらされた孤独などではなく、自分自身によってもたらされた孤独だった。
そう考えてみると、Dearにも、The White Loungeにも、また新しい視点が見つかるのでは無いか。
どこまで考えてるかわからないからな、大森元貴は
この追う、追われる感情、見せかけや本心というのがフロリジナルに繋がり、このホワイトラウンジがフロリジナルで終わるのも納得できる。
「見せかけ」という表面上に現れるものを考えると、フロリジナルにおいてそれは「香り」だから。
そして、共通項として集められた人々で出来た劇場、それがThe White Loungeだから。
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追記 : ちょこっと集
①Coffee
ブラックコーヒーの苦味を味わえない女性。
そんな女性の傍らで歌われるのは「苦味という傷とまた違う心を養わなきゃね」
女性「ミニトマトは(育てるのが)簡単なんだって!」
大森はトマトが食べられない。
「好きだと言うのは 君を知らなすぎるから」
と歌う大森からは、お互い何にも知らないよね、という悲しさと、恋とは違う愛しさまでを感じる。
②Just a Friend
女の子がどちらにしようか迷っている服はどちらも青色。つまり若井のメンバーカラー。
大森の目の前で私は若井のことが好きだ!と堂々たる宣言をし、宣戦布告を受けながらも選ぶ。そして女の子は大森が選んだものとは違う方を選ぶ。
どのCDにしようか迷う女の子。
大森に選ばせておいて違うものを選ぶ。
「君のお気に入りの曲を気に入ってみたりして」
なんて気持ちは一切ないんだろう。
頑張れ、大森少年………
ホワのJust a Friendが大好きすぎるので是非とも映像化して欲しい。お願い、頼む。
③ニュー・マイ・ノーマル
「伝えたいことはいつだって伝わらない。伝えたい気持ちはわかっていて、伝えたい言葉はここ(胸を指さして)にあるはずなのに。」
そんなセリフから始まり、最後にプロポーズ。
ここで「ん?」と感じたのは私だけなんだろうか。
プロポーズに言葉がないなんて有り得る?
いや、そりゃ、人それぞれですけれども。
常日頃から「伝えたいことは言葉にしないと。」「あの人にありがとうって言えた?ごめんなさいできた?」と言葉にすることの大切さを発信する人が、ここでわざわざセリフカットしますかね?
イコール、伝えるべきことは言うんだぞ、っていうメッセージだと思ってるんだけど。どうだろう。
でも、その伝えたい感情が愛ならば、言葉にしようとしても、薄っぺらくなりそうで伝えきれないものもあるのかもしれない。私には分からないが。
というのはきっと
ニューマルの次の曲、PARTYに繋がってる。
④ANTENNAとの繋がり
この公演では「砂嵐」もまたキーポイントだと思う。
場面の切り替わり、演出等でよく出てきた。
舞台セットには窓に見せかけたテレビ、立体のテレビなどテレビが合計9つある。
(フロリジナルの時だけ照明で窓枠がテレビだったと分かった。それ以外の時は窓枠だと思う。)
ホワイトラウンジで紡がれたのは9つの物語。
砂嵐はvoidの方。
voidとは孤独や喪失感、空っぽの状態を意味することからこの公演の多くのセクションとの繋がりを感じることができる。
一方、砂嵐の無かった最終曲、フロリジナル。
他の曲とはまるで世界の違う、彩りに溢れた演出がされる。テレビに移る色合いはまるでhope。
(ANTENNAリリース時のアー写と似た基調)
ANTENNAの頃から既にこのホワイトラウンジのことをイメージしてたんでしょうか。怖ーーー!(褒
⑤君を知らないって恋愛ソングですか?
考察とは外れますが、''超個人的に''言うと、君を知らないの演出のされ方は納得がいかなかった。
(失礼ながらPARTY、Attitudeにも同様のことを思っていますがこの2曲はどちらかと言うと「踊るんですか???」が強いですね)
というか、個人的意見でもないほどに、そもそも本来の楽曲とは異なるものになっていると思う。
この曲は、誰かに対する執着心、歪んだ愛情を持っている。本人も語るように。
相手の感情はわからない、または相手の気持ちは完全にこちら側から離れている。けれどこのThe White Loungeにおいて、大森だけでなく女の人も未練があるように見えた。この曲は果たして互いに未練があるものだっただろうか?
「異性じゃなくていい」と本人が語るように、この曲で歌われる対象におおよそ検討がつくように、この曲があたかも失恋ソングのような、失恋なんだけど互いに未練という愛を持っているような、そんな表現が来るとは思わなくて驚きました。
言葉を強めると、意味が分からない。
これはただ、君を知らないに対する思い入れが強すぎる個人の意見。
まあーーー確かに、恋愛ソングの側面も持ってるよな。うん。持ってる。持ってる、けど、、、
これは大森さんにとっても、脚本家が大森さんではなかったからこそ出た新たな発見だと信じてる。
信じてるって言ったらすごく失礼ですね、ごめんなさい。ただ、大森さんではない脚本家の方がいらっしゃるということを考えると、色々な曲が恋愛ソングになったり、踊ったり、MVで表現されているものとは異なる解釈があったり、そんな部分に納得がいくのです。決して脚本を批判しているわけではないし、今回の脚本は言うまでもなく大好きです。
どうかそこをご理解ください。
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〇解決できていないこと
(何か考察があればぜひ教えてください!)
・第2章からのステージが横断歩道だった理由
・公演中にくぐってなんともなかったドアたち
・スーツとパーカー、時間軸のズレ
・Attitudeのドアのマークの意味
・リストバンドのマークと数字の意味
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おわりに
長文、支離滅裂でしたが読んでくださりありがとうございました!
今だからこそ出来たこのホワイトラウンジというのは、公演されるべきだったのかどうか……というのは彼の本心を知らないので分かりません。
しかし、彼の消費に対する危惧を形にできてしまうのがフェーズ2なんだな、と。思いました。
でもやっぱりMrs. GREEN APPLEの内面というのはずっと変わっていないし、だからこそ私はこの人たちのことがずっと好きなんだと実感しました。
映画を観ながら、「ああ、なるほどな。想像よりずっと好きだな〜」とわくわくしてました。
だけどそれは、音楽劇ということを知っていたから賛寄りなんだ、ともずっと思ってました。
これが先入観ってやつです。本人の意図とはズレるだろうけど、私は「音楽劇である」という先入観を持っていってよかったと思いました。
知らなかったらびっくりどころの騒ぎじゃないです。確実に困惑だけを抱えて会場を後にしていたと思います。だって初めて出会った時はバンドとしての5人だったんだもん。そこからずっとバンドとして応援してたんだもん。好きな小説が実写化されたら自分の解釈とは違ったときみたいな感じですよ。
君を知らない、互いに未練ある恋愛ソングだし。
Attitude、なんか踊ってるし。
PARTY、子供産まれちゃってるし。
んんんんなんなん!???とは思いました。
これまで解釈は全て受け手に任せてきたような人なので、向こうから新たな解釈が与えられることに慣れてなくて「!??????」の連発でした。
こちら側でそれぞれの曲に対する解釈というのは数年のうちに出来上がっていますから。
色々な意味でそれはぶち壊されました。
しかし、冷静になればなるほど「なるほど」と「面白い」と「怖い」が募ります。それと同時に不思議なことにMrs. GREEN APPLEに更に惹かれていきます。
どこまで考えてるんだろうね。何が嘘で本当か分からないけれど、全てが嘘で本当なんだもんね。そうだよね。
確かにバンドの形とは違うけれど、本質は全て何も変わらないMrs. GREEN APPLEだと思います。
生で観たかったな〜。
マイナス意見が多いんじゃないかと思われているかもしれませんが、ホワイトラウンジを観てからというもの、確実にミセスがより好きになってます。
1曲1曲が愛おしいという感覚。
彼らの伝えたい思いをきちんと受け取れるような人になっていきたいし、そんな人が増えてほしい。
我儘が終わろうと終わるまいと、彼らに救われ続ける日々を、これからも生きていこうと思う。