見出し画像

1月「雛菊の願い」⑦

「姫奈(ひな)ちゃん! 良かった、見つかって」

「何でここに居るの? お店は?」

「姫奈ちゃんのお母さんから、喧嘩して家を飛び出したって聞いて…。お店は開店してるけど、任せられる人に頼んで出てきたんだよ。とにかく無事で良かったよ」

 目の前に停まった車から降りて来たのは、大学生の彼だった。車はお店のものなのか、見慣れないアルファベットのような表記で、店名だと思われる字が書かれていた。車から降りて来た彼も、同じ文字で書かれたエプロンを腰に巻いていた。そんな格好の彼が、お店を誰かに任せて出てきたと言われれば、急いで出てきてくれたんだと解った。けれど、その理由が母親だと聞けば、私は彼に背を向けて歩き出す。

「姫奈ちゃん?」

 歩き出した背中に彼の声がかかったが、私はそれには返事をせずに、ひたすら歩く。でもどうしても靴擦れが痛くなって、少しずつ歩幅が小さくなり、歩くスピードも遅くなっていき、すぐに歩けなくなった。

「姫奈ちゃん! 大丈夫…?」

「…じゃない、全然大丈夫じゃないよ!! 解ってる、どうせ高校生のくせに、こんな格好つけて、背伸びして高いヒール履いて、靴擦れで歩けないなんて…やっぱりまだまだ子どもだって言いたいんでしょ!? だって、しょうがないじゃん。好きになった人が大人だったんだもん。好きな人が大人びた私が好きって言ってくれたんだから、隣に立つのに相応しい女性になろうとしてくれる私が好きって言われたら…努力し続けるしかないじゃない! だって、好きなんだもん…ただ好きな人のために頑張っただけじゃない…」

 途中で悔しくて涙が出た。メイクも格好も頑張って、高いヒールにも挑戦して、少しでもあの大人の女性に近づこうとしたのに、彼氏が本物の大人の女性と一緒に居るところを見ただけで疑って、2人のあとをこっそりつけておきながら、結局は2人で居るところを見ていたくなくて逃げ出した自分が…その上靴擦れで歩けなくなって立ち止まっている自分が、本当にただの子どもでばかみたいに思いながら、止まらない涙を拭って私は必死に喋った。彼は何も言わずに、ただじっと最後まで聞いてくれた。それから最後まで話終えた私の頭を優しく撫でた。

「いいんじゃない? 高校生でも子どもでも、姫奈ちゃんは彼のために必死に頑張ったんでしょ? 靴擦れするほど頑張って歩いて、必死に追いつこうとして…その努力は、俺からしたら凄いことだよ。でも俺はやっぱり高校生の姫奈ちゃんも、子どものままの姫奈ちゃんでも、良いと思うんだ。こんな風に頭を撫でたら、また怒られるかもしれないけど…大人びてなくても、必死に努力しようとしなくても、ありのままの君を好きになってくれる人が居ると思ってしまうんだよね…俺、諦め悪くてね。よく双子の妹からも頑固だって言われるんだけど…。だから姫奈ちゃんの努力は凄いと思うし、それを否定するつもりはないよ。でも…それでもやっぱり、そのままの姫奈ちゃんも十分素敵だよっていうのも覚えておいて? 姫奈ちゃんのお母さんも、本当はそう言いたかったんだと思うよ。急に大人になろうとする姫奈ちゃんを見て、心配になったんじゃないかな。必死に努力してるのが解ったから、姫奈ちゃん自身の気持ちが置いてけぼりになってるんじゃないか…って、母親だからね、ただ心配だっただけなんだと思うよ。だからね、帰ったら話を聞いてあげて。姫奈ちゃんもお母さんのこと好きだから、解ってくれないって思っただけだよね。だからちゃんと話して、仲直りしよう。好きな人に…大切な人に嫌いって言われるのは、言った方も言われた方もきっと辛いから。だから、先ずは電話してあげて。それからデートへ行くなら駅まで送っていくから。デートが終わったら、ちゃんと家に帰るんだよ。さぁ、先ずは靴擦れの手当てをしよう」

 頭を撫でながら彼は私に目線を合わせるようにして、少し屈んで話した。いつもなら彼が言うように、子ども扱いしないで…と怒り出すところだ。話した方も話す内容も、聞けば聞くほど子どもをあやすような話ぶりにしか聞こえないのに、彼の語りかけるような口調と優しい声が心地よく聞こえた。撫でられている手も温かくて嫌じゃなかった。時折哀しげに見せる微笑みが気になったけど、今はその優しさに浸りたかった。それなのに、彼の口からデートの話が出れば、まるで行っておいでと言われているようで、途端に心の中がモヤっとした。

「勿論デートに行くに決まってるでしょ。でも…その前にお母さんに電話する。電話して、帰ってからちゃんと話すわ」

 モヤっとの正体が解らないまま、私はデートに行く宣言をする。少し皮肉めいた言い方にはなったけど、母親に電話することと、帰ってからちゃんと話をすることも伝えれば、彼は優しい笑みで「うん」と頷いた。

 車に乗って駅に送ってもらう中、言われた言葉を思い出した。

『好きな人に…大切な人に嫌いって言われるのは、言った方も言われた方もきっと辛いから』

 そう言った時、哀しげに彼は微笑んだ。まるで自分が経験したような言い方だった。彼は誰かにそう言われたことがあるんだろうか…だからあんなに哀しそうな笑みを見せたのか…と思えば、心の中に再びモヤっとしたものが流れ込んできた。

「姫奈ちゃん、大丈夫? まだ足痛い?」

 車に乗り込んでからずっと一言も喋らずにいると、運転席から心配そうな声がかけられる。横目に運転席へと視線を移せば、純粋に心配してくれていると解って、自分の中に湧き起ったモヤモヤを何とか払拭しようと、別に気になっていたことを口にして話題を変えた。

「大丈夫。それより気になってたんだけど…車に書いてあるやつも、そのエプロンの文字も見慣れない表記だけど、お店の名前か何か? 英語にしてはちょっと見たことない記号みたいなのが上についてるし、全然読めないし。何って読むの、それ」

 私が聞きながら彼のエプロンを指差せば、彼は「ああ」と短く返事をして、少し間をおいてから赤信号で停車した。それから自分のエプロンの裾部分に書いてある文字を見せて、口を開いた。

「…エトワール、フランス語だよ。車には、フランス語表記の横にカタカナ表記もしてたんだけど…見にくかったかな」

「え、嘘。見えなかったっていうか、そんなの見てない」

 カタカナ表記を見ていないと言えば、彼は「興味がないと見えないよね」と笑いながら話した。ただ笑って話しただけかもしれないのに、いつもなら気にならないことなのに、まるで自虐しているように聞こえて、違和感を抱いた。

「別にそんなんじゃないけど…エトワールって、どういう意味なの?」

 興味がないと断言されてしまえば、そんなことはない…と、なぜか言いわけじみた返答をしつつ、エトワールの意味を聞けば、それまでの表情が一変し、彼が真剣な眼差しで、前を見つめたまま口を開くのと同時に、前方が青信号に変わり、彼はそのまま車を発進させた。

「エトワール…星って意味だよ」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?