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7月「エーデルワイスの思い出」⑥
彼女は荷下ろしが終わったと連絡が来て、先程の会場に戻っていた。僕は彼女を待つ間、彼女の記憶探しを手伝うことになったことに、まだ迷いを感じていた。勿論、彼女自身が決めたことを覆す気はない。失くした記憶を思い出したいというのなら、僕にとっても嬉しいことだ。けれど彼女は僕に言った。
『だから教えてください…あなたのこと、私のこと。あなたが知っている私を教えてください』
僕が知る彼女のことを教えるのはいい。問題は僕のことだ。今の立ち位置から言って、彼女にとって僕は自分の記憶を知る人間だ。でもそれ以外の認識がない彼女にとって、僕は僕自身のことを何と彼女に言えば良いのか解らなかった。僕と彼女の本当の関係を話すべきか、それとも適当に友人と嘘をつくべきか。しかし僕は彼女の友人と呼べる程、彼女を詳しく知っているわけでもない。天涯孤独となった彼女の生い立ちや、旧友についても、僕は何も知らない。そんな僕が彼女の記憶探しを手伝うために、連れていける場所もそんなに多くはない。彼女にとって僕がどういう存在であったかを話すことが出来ない以上、二人が暮らした家に連れていけるわけでもない。
僕が頭を悩ませているところで、僕の視線は向こうからこちらへ歩いてくる華道家の男性の姿を捉えた。その姿を見た時、それまで気づかなかったことに気づいた。いや、正確に言えば、気づけなかったことだ。自分の感情や余裕のなさが招いたことではあったが、その違和感に初めて気づいたのは、この場所だった。泣いている彼女を前に何も出来ない自分の不甲斐なさを悔やみつつも、自分が傍に居ることを諦めたあの時、華道家の男性を連れてこようと彼女に告げたのに、彼女はおかしな反応を見せた。あの時は、泣いている自分を放って人を呼んでくるという僕の態度が、彼女を不機嫌にさせたのだとしか思わなかった。そしてそれ以上に彼女が泣き止まないことと、僕の背中にしがみついたことへの驚きと緊張感で、僕は他のことは何も考えられなくなっていた。けれど今、彼が僕の目の前に立ったことで、その違和感は確信に変わった。
「話は聞いたよ。絢ちゃんの記憶探しの旅をするんだって? 当摩はそのために君を寄越してきたんだね。それと君と絢ちゃんとのことも、当摩に聞いたよ。最初は…絢ちゃんのためには刺激をしない方が良いと思っていたけど、絢ちゃん自身が望んで決めたことなら仕方ないね。でも…君はそれで平気なの? 今は君の方がずっと戸惑って見えるけど…」
「自分が何者であるのかを、どう彼女に告げれば良いのか迷っています。彼女に記憶がない以上、僕自身の存在を明かすことは出来ないし、明かしたことで彼女を辛い立場に追いやりたくはない。それでも彼女が記憶を思い出したいと言ってくれたことは、純粋に嬉しいです。もしもあの日の…最後の記憶を思い出した時に、彼女がどれほど苦しむのか考えれば、思い出すことを手伝って良いのかどうかもまだ解りません。何が彼女にとって、一番の幸せか…僕は未だに解らないのだから。それでも彼女が苦しむのなら、今度こそ傍に居たい。あの日のように手を離すことなく、彼女の心も体も護りたいと思うんです」
何度悩んでも答えが出なかった。頭の中では、常に何が一番彼女にとっての最善で、どうすれば良いのか…そればかりを考えていたけど、何一つ良い案は浮かんでこなかった。けれど口にしてみれば、難しくさせていたのはいつも自分で、答えは単純なことだった。勿論迷いの総てが消えたわけでもない。現に自分のことをどう話せば良いのか未だに迷っているし、彼女のこれからのことを考えれば悩みは尽きない。それでも自分がどうしたいか、それだけは初めから何一つ変わらなかった。もう二度と手を離したくない。あの日…彼女が僕から離れることを決めた日のことも、海の中で彼女を手放してしまったことも、僕は二度と繰り返さない。彼女に何があっても、僕は彼女を守り抜いてみせる。僕は自分自身の中に湧き起こる決意を胸に、前を見据えた。
「うん、いいんじゃないかな。先のことは誰にも解らないんだから。案外苦しまないでケロッとしてるかもしれないし、そんなことは起こってみなきゃ解らないんだよ。それでも君の自信は、君の決意を後押ししてくれると思うから。思うようにやってみれば良いんじゃないかな。じゃあこれを君にあげよう。エーデルワイスの花の苗だよ。日本で自生してはいないし、育てるのは環境的に難しいらしいんだけど、君たちになら花くらいは咲かせられるんじゃないかな」
「あ、あの! すみませんでした。僕の勘違いで…あなたのこと誤解してました。展示会、今度は客としてちゃんと見に来ます! その時に、もう一度きちんと謝罪させてください」
僕にエーデルワイスの花の苗だと言って手渡した華道家の女性は、微笑んで去って行った。去って行く女性に届くように、僕が大きな声を出すと、女性はそれに応えるようにして片手を上げた。女性の後ろ姿を見届けていると、入れ違いで彼女がこちらへ歩いてきた。彼女は大声を出していた僕を不思議そうに見つめていた。
「志摩さんて…女性だったんだ。余裕がなくて、全然気づけなかった。それとこれ…志摩さんが、エーデルワイスの花の苗だと言ってくれたよ。日本では自生していないし、育てるのは難しいらしいけど、僕らなら花くらいは咲かせられるんじゃないかって言ってた」
彼女は僕が志摩さんを男性だと思っていたことに驚きながら、志摩さんは花屋の店主の双子の姉だと笑って教えてくれた。彼女の笑みを見ていると、去り際に志摩さんに言われた言葉が、僕の背中を押してくれるようだった。僕は改めて彼女に向き直ると、彼女を見つめて口を開いた。
「君の両親のお墓参りに行こう」
彼女は少し驚いていたけど、僕の真剣な表情を見つめ返して「はい」と、短い返事をした…。