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7月「エーデルワイスの思い出」④

 僕の知らない彼女が憤っている姿に戸惑っていると、先程奥へと姿を消していた華道家の男性が戻ってきた。彼は僕と彼女を交互に見た後、彼女の隣へとやってきた。

「すごい大きな声が聞こえたんだけど、何かあったの? 絢ちゃん、大丈夫? 花木も一通り運び終えたし、二人とも休憩しておいで。あとはうちのスタッフがやる仕事だし、これ以上絢ちゃんを働かせたって、当摩にバレたら後が怖いしね」

 最初こそ心配そうに彼女を覗き込んでいたが、すぐに冗談交じりの言葉で彼は僕たちにこの場を離れるように指示した。僕は自分が戸惑うばかりで最初は気づかなかったが、声を荒げた彼女もまた自分の言動に戸惑っているようだった。もし、あれが彼女の無意識の行動なんだとしたら…と考えていると、視界の隅で男性が僕に手招きをしているのが見えた。いつの間にか彼女から少し離れた所から僕を呼んでいる。僕は先程の羞恥心や嫉妬心もあり、少し警戒しながら彼に近づいていく。僕のそんな様子に気づいているのか、彼は少し苦笑いしながら僕を待っていた。

「絢ちゃんは相当戸惑っているみたいだから、君が絢ちゃんを連れて行ってくれる? 残りの花木を荷台から降ろして設営するまで、もう少し時間がかかりそうなんだ。受領サインをしようにも、絢ちゃんの今の状態じゃ無理そうだし。当摩はこうなるって解った上で、君たち二人を寄越したのかな? ああ、とにかく。この先に海が見える丘があるから、そこに連れて行ってあげると良いよ。絢ちゃんが落ち着いて、仕事が出来る状態になったら戻っておいで。そうしたら受領サインをして、君たちの仕事は終わりだ」

 男性が個展会場の準備に戻ったのを見送って、僕は彼女に近づく。彼女はまだ同じ場所で茫然と立ち尽くしていた。

「まだ少し時間がかかるそうなので、散歩がてら歩きませんか?」

 彼女は何も答えなかったが、視線だけを僕に向けた。僕はそれを肯定と捉えて、静かに歩き出す。彼女が僕の隣を歩くことはなかったが、少し後ろを歩いてついてくるのが解った。5分くらい歩いたところで、潮の香りが風にのって漂ってくる。目の前には小高い丘が広がっていた。

 海の見える丘…その言葉を聞いた時、僕は迷った。なぜなら海は僕らが最後に別れた場所だったから。あの日波の中へ消えていこうとする彼女を、何とか掴まえて、その手を放すまいと決めたのに、僕は波にのまれていく中で、彼女の手を放してしまった。そして僕と彼女は離れ離れになって、別々の病院で目を覚まし、彼女は僕の前から姿を消してしまった。奇跡的にこうして出会えて、彼女の姿は僕の視界の中に映っているけれど、彼女の中から僕という存在は失われてしまったままだ。でも彼女に記憶がなくても、彼女が幸せならこのままでも良いのかもしれない…という思いと、たとえこれが最後になったとしても、もう一度僕の名を呼んでほしいという思いの中で、僕の気持ちは彷徨い続けている。彼女の為に、彼女が幸せになる為の選択を考えれば一つしかないのに、僕はまだ迷っている。そんな状態で海を見た時、もし彼女の失われた記憶が…それも一番最後の海での記憶が蘇ったとしたら…僕は彼女を苦しみの渦から救うことは出来るだろうか。

「あの、大丈夫ですか?」

 いつの間にか僕の隣で、僕の顔を心配そうに彼女が覗き込んでいた。目の前の丘を目指して歩いているつもりだったのに、僕はいつの間にか無意識で歩みを止めていたのだ。少し後ろを歩いていたはずの彼女が隣にあって、彼女が僕を心配そうにしている姿を見たら、僕の手は勝手に彼女を求めて、自分の腕の中に抱き寄せたい…そんな思いが頭を過ぎった。きっと彼女は驚くだろう。そして僕を突き飛ばして逃げるかもしれない。そして今日が終わったら二度と会ってくれないかもしれない。それでもいい、嫌がられても突き飛ばされても、彼女の体を抱き寄せたい、この手に搔き抱きたい。そして彼女の唇に触れt…

「顔色悪いですよ。私、水を持ってきますから、あの木陰に居てください。すぐに戻りますから!」

 彼女にこれから手を伸ばす寸前だった。邪念に思考を乗っ取られ、彼女に手を伸ばそうかという時、彼女の言葉に意識を取り戻す。彼女は僕の前から走り去っていき、僕はその場に取り残された。

 結局これが運命の悪戯なのか、僕は目の前に海が広がっている、丘の上にある木陰に座っている。きっと先程の場所で彼女を待っていたら、また怒られるような気がした。そしたらまた彼女は、自分の言動に戸惑ってしまうかもしれない。何度も繰り返す戸惑いが、記憶のない人間にとって、自分が何者であるかという悩みへ変わっていくとしたら、その悩みはきっと彼女にとって痛みとなるだろう。彼女自身がこのまま記憶がなくても生きていけるなら、それで良いと思っているに違いないのだから。それを僕は感じながら見ないフリをしていた。最初に気づいたのは、今朝のことだ。花屋の店主である男性が、彼女に『記憶を探す旅をしておいで』と話したあの時、彼女の表情に戸惑いの色がはっきりと見えた。だから気づいてしまった。彼女は記憶をなくしたまま生きていくことを決めてしまったのだと。僕の存在をなくして一人で生きていくと…。

 彼女の思いに気づいた時、僕は現実を突きつけられた。僕自身が、このまま記憶が戻らない方が彼女にとって幸せなことかもしれない…なんて思っていながら、それがいかに口先だけの思いだったのかと、思い知らされたのだ。だから邪念なんかに思考を支配されたんだ。

「いや。あれが僕の本音…か」

 ぽつりと呟いた自分の言葉が耳に届く。僕の本音、邪念なんかじゃなく、本当の思いだと気づいた自分を、僕は呪いたくなった。彼女の為に、彼女を幸せにしたくて彼女を失った僕が、また自分勝手な思いで彼女を、彼女の気持ちをないがしろにしようというのか。僕は一体どこまで彼女を苦しめれば気が済むんだ。僕はただ、彼女に笑っていてほしかっただけだ。それが僕の隣なら、僕は幸せだと思った。でも彼女にとっての『幸せ』が、あの日も今も、僕には解らないんだ…。

 木陰に座って海を眺めて、時々潮の香りがする風を感じていた僕の前を、突然何かが遮った。それが僕を抱き締める彼女の姿だと気づいたのは、彼女が持ってきたペットボトルの水が小さな水溜りになって、僕の手を濡らした時だった。

「え…なん…で……」

 突然のことに、僕は言葉にならない声を発する。彼女は僕の戸惑いに気づかないのか、僕の体を抱き締めたまま動かないでいる。僕は何が起きているのか理解するのがやっとで、でもそれもどうしてそうなったのか、頭が追いつかないでいる。訳も解らない状態なのに、僕は何を思ったのか、ひとまず零れているペットボトルを手繰り寄せて蓋を閉める。水は随分零れてしまったけど、半分以上は残っていた。いや、残りの水の量なんてどうでも良いことなのかもしれない。ペットボトルの蓋だって、零れる水は勿体ないけれど、そんなことよりももっと先に確認しておくべきことがあるはずなのだ。でも、僕の思考回路はこの状況に既にパニックを起こしていて、マトモな回答を導き出してくれなかった。それでも一つ深呼吸をして、僕を抱き締めている彼女に視線を向けると、視界に入った彼女の肩が上下に揺れ動いていた。気になって注意深く彼女を見つめると、すすり泣く声が聞こえた。僕が驚きのあまり、自分の体を抱き締めている彼女を引き剥がすと、彼女は涙をぽろぽろと零して泣いていた…。


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