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7月「エーデルワイスの思い出」⑤

 引き剥がした彼女が泣いている姿を見て、僕は動きを止めた。なぜ彼女が僕を抱き締めたのかも、なぜ泣いているのかも解らない。そして泣いている彼女の腕を掴んだまま、どうしたら良いのかさえ解らなかった。さっきまでの僕なら、間違いなく彼女を抱き締めた。涙を拭って、抱き締めて、あまつさえ自分の思いを押し付けて、彼女に口づけようとしたかもしれない。でもそれは自分が想像していただけの姿に過ぎず、現実に僕は思い描いた行動を一つも実行に移すことは出来ず、泣いている彼女を目にしたまま、どうすることも出来ないでいた。

「…どうして泣いてるんです?」

 ようやく絞り出した言葉を発するも、何だか酷く他人事のように自分の耳に入った。それでも泣き止まない彼女を見て、自分に何も出来ない不甲斐なさを悔やみながら、僕は彼女を掴んだ手を離す。

「…誰か人を呼んできましょうか。荷下ろしも終わっているかもしれないし、お得意様だっていう彼を連れてきます。彼ならあなたも、僕よりはずっと顔見知りだろうし、安心でしょう? せっかく持ってきてくれた水ですが、落ち着いたらあなたが飲んでください。じゃあ、ここで待っていてください。呼んできますから…」

 僕は自分が彼女の傍に居ることを諦めて、華道家の男性を連れてくると彼女に話し、彼女を残して立ち上がる。すると今度は、来た道を戻ろうと歩き出す僕の背中に、彼女がしがみついた。彼女の腕が僕の体に巻き付いた拘束感と、背中に感じた彼女の体温に、僕の鼓動が早まる。驚きの連続で、再び自分を見失いかけていると、彼女の泣きぬれてくぐもった声が背中越しに聞こえた。

「…彼って誰ですか。どこに行くんですか。どうして…どうしてそんなに哀しそうな顔するんですか。なんで何も言ってくれないんですか…私だけ何も知らないのに、どうして話してくれないんですか…何で…」

 話す度に、僕を抱き締める彼女の腕がぎゅっと締まる。彼女も自分の行動に戸惑っているのか、途中支離滅裂で何を話そうとしているのか聞き取れなかった。僕は彼女を落ち着かせようと、自分の体から腕をそっと剥がして、彼女の目線に合わせようと思い、彼女を正面から覗き込もうとした。しかし彼女は置いて行かれると思ったのか、それとも気恥ずかしさから目線を合わせるのを避けようとしてなのか、今度は僕に正面からしっかりと抱きついて離れようとしなかった。

 ずっと抱き締めたかった彼女の体が、僕の腕の中にある状況に、僕は戸惑いながらも震えていた。それは僕自身が起こした行動ではないけれど、彼女の、僕を抱き締める腕の強さや温かさに触れ、僕は自分に言い訳をして、しがみつく彼女をそっと抱き締めた。抱き締めた彼女の体は温かく、そして僕は懐かしい香りに包まれる。触れた体はどこも柔らかくて、想像以上に緊張した。このまま時間が止まってしまえばいいのに…そう思いながら、彼女を抱き締める力を強めると、腕の中の彼女がたじろいだ。

 ハッとして、彼女を抱き締める力を弱めて、彼女の表情を覗き見ると、涙は止まったようで、彼女の体が強張っていることに気づいた。僕は慌てて彼女への拘束を解いて、彼女から距離を取ろうとした。しかし気まずそうに俯いたままの彼女の手が、僕の服の裾を掴んで離さなかった。そんな彼女の行動に僕は戸惑いつつも、それを拒否することは出来ない。結局僕は裾を掴まれたままの状態で、俯く彼女の言葉を待つことしか出来なかった。

 暫くして落ち着いたのか、彼女が口を開く。しかしやはり気恥ずかしいのか、その声は消え入りそうな程小さかった。僕は彼女の言葉を聞き洩らさないように、自然と彼女の口元近くに耳を寄せる。そこで彼女と視線がぶつかって、初めてその距離が近いことに気づく。それは彼女の唇が僕の頬に、触れるか触れないかのギリギリラインだった。僕が咄嗟に身を引くのと彼女が裾を掴む手を離したのは、ほとんど同時だった。ついさっきまで触れられる程の距離が離れるのは一瞬で、その一瞬は僕の胸を痛めた。

「あの…急に泣いたりしてごめんなさい。ただ、自分でも自分の感情がよく解らなくなってしまって…」

「大丈夫ですよ。記憶を失ってからいろいろあって、きっと混乱しているだけだと思うから。生活に支障もないし、この先無理に思い出さなきゃいけないことなんてないと思います。あなたが今のまま…このまま大好きな花屋の仕事を続けていけて、今が幸せならそれでいいと思います。今朝みたいに店長さんに言われても、もしこの先他の誰かに言われても、あなたが今のままでいいと決めたなら、それで大丈夫です。今後は何もかも、あなたが望むようにすればいいんです。自分の幸せも、生きていく道も…あなたの意思で選んでいいんです」

 彼女を失うのは、僕にとって怖いことだった。でもそれ以上に怖いのは、彼女の意思を僕が奪うことだった。記憶を失う前の彼女の夢を、僕は少なからず阻んでいたと思う。僕たちは二人で生きていくことをあの日、選んだけれど、僕はそれが彼女の夢や希望までを失うことに繋がるなんて思いもしなかった。僕が彼女を幸せにするつもりだったし、彼女の夢を支えていけたらいいと思っていた。でも実際の僕は彼女の夢を奪いそうになっていたし、彼女を幸せにしてあげられたかどうかでさえ解らなかった。今も解らない。あの日の彼女が、本当に僕と一緒に生きていくことを選んで幸せだったのか…それを知る術はもうないのだから。だから、せめて今度は彼女が幸せになる道を応援したい。記憶を取り戻さないままでも、彼女が夢を叶えられるのなら、それが今の彼女にとっての一番の願いであり、幸せであるのなら、僕は以前の…彼女に片思いをしていただけの一人の男に戻ればいい。時々マンションのエントランスで花を生ける彼女の姿を見て、顔見知り程度に挨拶でも出来ればそれでいい。もし、彼女が僕以外の男性と幸せになることになったら、それはそれで考えただけで辛く、救いのない苦しみの世界で生きていくことになるかもしれないけれど、それでも僕にとって彼女の幸せが一番だ。この先もずっと彼女が笑顔でいられるのなら、僕の世界が色を持たない、モノクロームになったとしても、生きてはいけるだろう。

 なるべく笑顔で、彼女の混乱を和らげられるように、僕は自分の感情を抑え込んで、落ち着いて喋った。最初は彼女の目を見て話していたけど、後半は彼女がどんな表情で聞いているのかさえも、見れなかった。彼女の意思を尊重すると口では言いながら、僕の心は彼女の隣に自分が居ない映像を描いて、痛みと苦しみに耐えていた。それでも最後だけはきちんと笑顔で終わりたくて、無理やりでも微笑んで彼女に視線を向けた。でもやっぱり僕の心はどこまでも弱くて、涙が零れ落ちてしまいそうになった。だから僕は一瞬だけ微笑んで、すぐに空を見上げた。空は眩しい程、太陽の光で煌めいていた。

「違うんです。そうじゃない…私だってずっとこのままでいい、このまま記憶を失ったままでも生きていけるって思ってた。あなたに会って、あなたの辛そうに笑う姿を見るまでは…。でも、それじゃダメなんです! よく解らないけど、自分の心の奥底の方から…このままじゃダメだって訴えられるんです。だから教えてください…あなたのこと、私のこと。あなたが知っている私を教えてください。もう哀しまないでほしいから、私の記憶探しの旅の手伝いをしてください」

 彼女からの意外な言葉に僕は驚きつつも、まだ一緒に居られることを喜んだ。彼女の記憶探しを僕が手伝っていいのか、迷いはなくなったわけではないけれど、彼女の真剣な眼差しを受けて、僕は二つ返事で承諾した。ここから彼女と僕の、思い出巡りの短い旅が始まった。

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